5. 燕安

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「芳玉様は市場に行かれたことなどあるんですか?」  二本中一本を芳玉に手渡し、自分の分の飴をちまちまと舐めながら白檀は尋ねる。芳玉のことをてっきり深窓の御令息かなにかだと思っていたが、存外市場の流儀に馴れているようだ。 「一度だけ。もう十年以上も前の幼い頃に陛下と」 「何かの行事とかで?」 「いいや、私と陛下の二人だけで大人の目を盗んで都の祭りを見に行ったんだ」  革鞠を交互に蹴って白檀たちの間を走り抜けていく二人の少年を目で追いながら、芳玉が答えた。 (あの皇帝ならやりかねないかもな)  白檀の脳裏に、桃花の宴で目にしたきりの若く溌剌とした皇帝の姿が浮かんだ。幼い皇子と重臣の息子が二人お忍びで都に遊びに出掛けるなど、彼らにとっては大冒険だったのだろう。 「そんなに簡単に皇子が皇城の外に出られるものなんですか?」 「皇太子になられる前は、浩徳様も城の外のお母上の実家で暮らしてらっしゃったんだ」  その答えに、かつて芳玉が語った皇帝の生い立ちを思い出す。幼い頃に母を亡くした皇子が生き残るためにはそれが最良の判断だったのだろう。陰謀渦巻く後宮にいるよりは、いっそ離れてしまう方が身の安全は保たれる。しかしそれも、宮中の外で保護してくれる存在がいるという前提の上でだが。確か皇帝の実母の身分はさほど高くはなく、必然的にその実家にも楊家の介入を阻めるような力があるとは到底思えない。そんな白檀の疑問を汲み取ったかのように、 「環家が陛下の御実家の後ろ盾になっていたんだ。私とは年が近かったから、行動を共にさせていただくことも多かった」 (当時後宮で圧倒的な勢力を持っていたのは楊家。丞相家の環家は楊家に対抗するために、浩徳様に賭けたってとこかな。後々楊太后の養子になったとしても、幼少期に後見人をやってたってだけで大分違うだろうし)  子供たちの微笑ましい話なのだろうが、その裏にある大人たちの思惑にまで思いを巡らせてしまうのが白檀の性である。しかしそんな政治的意図に芳玉が気付いていない訳がないため、白檀は黙っておくことにした。 「つまり幼友達だったというわけですね」 「畏れ多い話だがな」  遠い昔を思い出したのか、白檀以外に人気のないところではいつも渋い表情を浮かべている横顔にふっと微笑みめいたものがよぎる。そこで初めて、芳玉が皇帝に向ける過剰なまでの親愛の情の由来が理解できるような気がした。この主従は、宮中に足を踏み入れるずっと前からすでに信頼関係を築いていたのだろう。 「幼友達と言えばもう一人。楊玉婉――現在の麝香様もよく宴の席などで我々と顔を合わせていた」  幼馴染三人が後に皇帝とその妃と禁伺長になるのだから、雲上の人々の交友関係というのは何とも豪華なものである。 (そうだ、麝香様と言えば――)  後宮脱出計画の話を芳玉にするわけにはいかないが、四夫人の一人と邂逅したことを黙っているのも都合が悪いかもしれない。なるべく会話の内容は伏せたままで頑張ろうと心に決め、白檀は口を開いた。 「麝香様には昨夜お会いしました」  その瞬間、先を歩いていた芳玉がつと足を止めて振り返った。眉根を上げたその顔には驚きと同時に微かな焦燥のようなものが浮かんでいるように見えた。 「彼女に、会ったのか?」  そう問う声音は何かに身構えているかのように硬い。 「はい。偶然、麝香様が夕方に遊歩なさっていたところを」 「何か言われなかったか?」  麝香と話した内容ではなく、何を言われたかを尋ねてくることに違和感を覚えながら、白檀は逆に聞き返す。 「何か、とは?」 「いや、何でもない」  彼にしては呆気なく引き下がり、芳玉は視線を横に逸らした。
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