5. 燕安

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 折しも都を流れる燕川に差し掛かったところで、大きく反った太鼓橋の上からは荷を運搬する舟々が見える。皇城から五条ほど離れたところ、商人たちが店を構える都で最も華やいだ区画だ。  川の両端には大店が並び、色とりどりの紙傘を差した人々がひしめき合っている。普段はあまり足を踏み入れることのなかった店々の軒先を順に目で追いながら、白檀は一軒の服装店に目を留めた。店先に、芥子(からし)色の襦裙(じゅくん)にくすんだ蘇芳の裳を合わせ、花鳥の刺繍の入った翠の紗(薄手の上着)を重ねた木製の人形が飾られていたのだ。黄と緑と赤という一見互いに喧嘩しそうな配色が落ち着いた色調の中で見事に融和し、古典的な意匠が何とも趣深い。 (後宮でも流行りそうだな)  優美な印象の沈香など似合うのではないかと勝手に考えていると、 「気に食わなかったか?」  突然に芳玉が口を開いた。何の話か見当もつかず、白檀は尋ね返す。 「何がです?」 「家に君の衣を用意していたはずだが」 「…………もしかして、私の部屋の長櫃の中にあったやつのことですか?」  しばし考えてから白檀は答えた。昨日ようやく皇城近くにある芳玉の邸――今では白檀の邸でもあるのだが――に帰った際、自室に見慣れぬ長櫃(ながびつ)が置いてあるのを見つけていたのだ。中を見て見ると、式典にでも着ていくかのような高価な衣が何着も仕舞われていたため、そのまま長櫃の蓋を閉めて来たのである。 「ああ」 「あれ、私のだったんですね」 「他人の服なわけがあるか」   芳玉の的確な突っ込みを受け、確かにと心の中で納得する。どうやら契約を結んだ時の言葉通り、芳玉は白檀のために衣食住を用意していたらしい。 (そういうところ、妙にマメだよな)   有難い気もするが、到底普段着にできるようなものではない。そもそも宮中に参内する時には支給の官服を着れば良いので、衣服はそう多くはいらないのだが。 「用意してくださってありがとうございます。でも、あんな高そうなものそうそう着れませんよ」 「それほどのものでもないが……気に入ったものがあれば好きに買ってくれて構わない」  そう言って、芳玉は先程の服装店に視線をやる。 「欲しくて見ていたわけじゃありませんよ。綺麗だなと思うのと、自分が着るかどうかは別の話でしょう?」  とはいえ、今のように継の当たった服を着続けているというのも体裁が悪いかもしれない。禁伺長の奥方として、多少は見栄えを意識しなくてはならないと思い直した時、白檀たちの前を歩いていた少女の肩すれすれを荷車が通っていくのが視界に入った。混み合う往来でのことで両者ともに距離を取ることができず、少女の体が軽くふらつく。   危ないと白檀が声に出しそうになった刹那、一人の青年が少女を優しく抱きとめた。すらっと細身の長身に涼し気な青色の衣をまとい、髪を頭の上で団子にまとめて巾の端を垂れ下げているのも何とも清潔感がある。 「怪我はない?」   微笑んでそう問いかけた青年に、少女はぽっと頬を赤らめて頷いた。 「だっ、大丈夫です! すみませんっ……!」   慌てて立ち上がろうともがく少女に青年は優しく囁く。 「慌てないで。ゆっくりで良いから」   爽やかだ。爽やかすぎる。少女だけでなく、周囲の女性陣たちが皆心臓を射抜かれているようだった。芳玉の甘ったるい美貌を隣に置いてみると、なおさら青年の清流のごとき涼やかさが際立って見える。   朗らかに手を振って少女を見送った好青年が顔を上げ、白檀たちと目が合った。 (本日のお目当てが向こうから来てくれるなんて、私も運が良いのかな)  次の瞬間、青年はぱっと顔を輝かせるなりこちらへ走ってきた。そのまま芳玉を無視し、ぎゅうと白檀に抱き着いてくる。 「白檀! 良かった、元気だった?」 「うん。皆も?」  手をぶんぶんと振り回されるがままにしていると、 「知り合いか?」  と、やや不機嫌そうな声で横から芳玉が尋ねる。そこで初めてその存在に気が付いたように、青年が芳玉の方に視線をやった。微かに驚いたような表情を浮かべた後で、青年は余裕たっぷりに微笑む。 「貴方が白檀の旦那様ですか」 「そうだが、君は?」  傍から見たら妙な状況になっているのだろう。このままにしていても面白そうだが、体面のためにもそろそろ誤解を解かねばなるまいと白檀が口を開きかけた時、  青年が胸の前で手を重ねた。衣の袖が大きく翻り、美しい弧を描いて収斂するのに合わせて、ぴんと伸びた背筋が礼をする。いかにも舞台映えしそうな大仰な仕草の後に、青年はにっこりと笑って言った。 「初めまして。私、青円楼の梅黎風(ばいれいふう)と申します」
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