5. 燕安

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「青円楼?」 「都では結構有名な劇団ですよ。我が国で男と女が共に舞台に上がれないのは御存じでしょう?」 「ああ。しかし普通は男が女形をやるだろ?」 「ええ。ですが、我が劇団では女が男役を演じるのです」  前を歩いていた黎風が後ろでこそこそと話す芳玉たちの方を振り返って答えた。舞台を降りても服装や髪型、化粧から声まで男役として振舞っているようだ。  最初は青円楼の座長の思いつきで始まったらしい。他の劇団との差異化を図った結果、女性だけの公演は想定以上の大好評を博した。上品ながら色香のある男役と可憐な女役の紡ぐ恋物語は都の女性陣の心を鷲掴みにし、観客の中には貴人の奥方も紛れ込んでいるほどである。父兄にしても妻子が男役者に熱をあげるよりはという思惑もあるのか、夫婦や家族で観に来るものも多いという。 「ちょっと、私の白粉知らない?」 「衣装間に合わないよ!」 「はあ⁉ 今から代役なんて無理に決まってるでしょ!」  芝居小屋の舞台裏は出番を控えた俳優たちで芋洗いになっているが、見えるのは女の姿ばかりだ。仮に後宮に立ち入ればこんな感じかと想像し、絶対に御免だと頭を振る。芳玉にとって幸運だったのは、役者たちは皆目下の舞台に掛かり切りになっており、突然の来客に構っている余裕がなかったことにある。隣を歩く白檀は本番前の舞台裏の喧噪にも馴れきっているのか、人混みの中を平然と進んでいく。女だらけという独特な空間である後宮に突然送り込んだことへの不安はあったものの、存外向いていたのかもしれない。 「白檀、久しぶりじゃないか」  雑然とした控え室を抜けると、一人の初老の男性が芳玉たち一行を出迎えていた。 「宮中に行ってしまってもう会えないと思っていたが、皆喜ぶよ」 「商老板(ラオバン)、お久しぶりです。暇があれば、またいつでも顔を見せに来ますよ」  「老板」と呼ばれているからには、彼は元役者の座長なのだろう。父親のような優しげな言葉に白檀も笑って答える。宮中で浮かべる作り笑顔とは違い、素に近いのであろうその表情は柔らかい。実家に帰って来たような感覚なのだろう。少なくとも、普通の人間にとっての実家とはそういうものらしい。 「皆に挨拶してきますね。芳玉様は少し待っててください」  白檀はそう言ってすたすたと歩き出す。  流石に妻の交友関係に足を踏み入れるわけにもいかず、芳玉は大人しく黎風に案内されて応接室に通された。傍から見れば、美男が部屋に二人。会話の糸口を探しがてら芳玉が茶器を手に取ると、黎風もまた茶器を取った。芳玉が扇を開くと黎風も扇を開き、髪を触ると黎風も触る。 「……なにか……?」  気まずさに耐え切れなくなり、そう切り出すと、 「すっ、すみません。貴人の所作を目にする機会などほとんどありませんから、つい手本にしてしまって……。失礼しました」  そう言いながらも衣の下で指先が動いているのを見ると、天性の役者気質なのだろう。 「白檀の旦那様が都に名高い清香君とは、想像もしませんでしたよ」 「宮中の外でも噂になっているのか……」  どうせろくな噂でもないのだろうと思うと頭が痛い。 「ええ、もちろん。学は文昌神[学問や科挙を司る神]の如く、姿は天女の如しと。実際にお顔を拝見したことのある人は市井にはほとんどいませんが、なるほど良いものを見せていただきました。白檀とどんないきさつがあったか知りませんが、劇の題材にしたいくらいですよ」  爽やかに笑いながら口にされる言葉は冗談とも言いきれず、芳玉は苦笑いを浮かべる。 「妻はここでどのようなことを?」  まさか役者をしていたわけではあるまいと思いそう尋ねると、 「項の家がこの近くにあって、幼い頃から我々とは親交があったのです。役者には読み書きができない者も多いですから、台本を読み聞かせてもらったり、文字を教えてもらったりと色々手伝ってもらっていました」  黎風はそう答え、少し言い淀んでから顔を上げた。 「火事の話は聞いていますか?」 「――ええ」  嘘だ。白檀の口から聞いた話ではない。結婚相手に彼女を選ぶ時に身辺調査をさせて知ったことに過ぎない。  十年前、白檀が両親を失った経緯。台所か暖炉か何かの不始末で自宅が出火し、貴族の邸宅の並ぶ区画でない以上、都の警備軍による消火は遅きに失した。当時宮廷蔵書楼に勤める史官であった項仁史(こうじんし)とその妻が死亡したと記録には残っている。白檀たち姉弟はその火災の生き残りだ。 「良かった。白檀は自分の身の上をあまり他人に語りませんから」  安堵したように微笑む黎風から目を背けるようにして、芳玉は無言で茶を口に含む。  その時、応接室の戸が細く開いた。小柄な少女がぴょこんと顔を覗かせ、芳玉の顔を凝視したかと思うと、すぐに後ろを振り向いて言った。 「ぜったい黎ちゃんの方が格好良いもん」 「こら、蓮華! 失礼でしょう!」  慌てたように黎風が立ち上がる。少女の後ろから白檀が姿を現し、笑いをこらえながら煽るような視線を芳玉に向けてきた。 「だって師姉たちがすっごくきれいな人がいるって騒いでたから。黎ちゃんの方が素敵なのに」  栗毛色の髪の少女はむうっと口をとがらせる。不満げではあるが、あどけない顔に浮かんだその表情は何とも可憐なものである。 「すみません。こちら、尚蓮華(しょうれんか)と申します。我が劇団の女役です」  黎風が背中に手を添えると、蓮華は軽やかに膝を折って挨拶をした。 「この二人が青円楼の看板コンビなんですよ」  未だ含み笑いの跡を残した白檀がそう説明する。 「彼女が?」  芳玉は思わず、十を幾つか過ぎたばかりに見えるふわふわとした印象の少女に訝し気な視線を送った。確かに可愛らしい少女ではあるが、看板女優ともなるとそれなりの技量が問われてくるだろう。 「素顔はこんなですが、一度舞台に上がれば国をも傾ける美女に」  芳玉の疑念を読み取ったかのように、黎風が芝居がかった調子で答える。 「そうだ。黎ちゃん、座長が呼んでた。そろそろ準備しなって」 「もうそんな時間か。それでは、我々もこの辺りで失礼いたします」 「黎風に少し相談があったんだけど、終わった後の方が良いかな?」  いそいそと立ち上がった黎風に白檀が尋ねる。 「楽屋で良ければ今で良いよ」 「ありがとう」  白檀の両腕の間に自ら挟まった蓮華が、案内するかのように白檀を引っ張っていく。その後ろ姿を見て黎風が笑みを浮かべる。そのまま自身も扉を潜ろうとして、少しの逡巡の後にくるりと芳玉の方を振り返った。 「舞台とは、虚構です。場所も違えば時代も違う。蓮華は姫君ではなく、私も男ではない。我々はただ、虚を以て実をなぞるだけに過ぎません。しかし、例え嘘だらけだとしても、その中に唯一真実と呼べるものがあれば本物になる。座長がよく言っています」 「それは――」 場違いにも聞こえるその言葉が言わんとすることを察し、芳玉は声を詰まらせる。 (嘘、か)  それほど自分に似合いの言葉はないだろう。あの宮中でさえ、そこまで見通した者はいなかったが。 「ただの役者の勘ですよ」  警戒心を強める芳玉に向かって黎風が微かに口角を上げた。それでも、所作の一つ一つを真似ていた時のように、黎風の大きな瞳は射抜くように芳玉を見つめたままだ。 「あなたは全て完璧なんです。ちょっとした表情も、身のこなしも。まるで常に何かを演じているかのように」
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