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芳玉に見つからないようにどうにか用事を済ませ、黎風の楽屋を出た頃には既に陽は西へと傾いていた。芝居小屋から少し離れ、木製の家々が細く入り組んだ一角を奥へと進んで行く。じめじめとした裏路地は薄暗く、時折筵の上に野菜や工芸品を広げている露天商の姿が目に入った。
「地面に置かれたものを踏まないようにしてくださいね。法外な値段で買わされますよ」
芳玉にそう警告し、白檀は杖を片手に道端に座り込む若い商人の横を通って行く。左右に並ぶ軒先からは簡単に家屋の中を見ることができ、白檀の姿を認めた顔見知りの子供たちがぱたぱたと駆け寄って来た。「白檀姉ちゃん」と口々に言っては両手を広げて菓子をねだってくる。芳玉の金で買った飴やら揚げ餅やらを手渡すと、子供たちは白檀の後ろに立つ見知らぬ男の方をちらちらと気にしながら、「ありがとう!」と叫んで走り去って行った。その足音の先に、崩れかけた軒先が見える。
「こちらが項家です」
「……修繕師を呼んだ方が良いんじゃないか?」
芳玉の指摘も御尤もで、久々に目にした我が家はここに本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるほどの様相を呈している。とはいえ、そう思うのも白檀の目が肥えてしまったからであって、周囲に立ち並ぶ家々はどれも多かれ少なかれ似たような状態なのだが。
白檀が家を出てからは宋薫がこの家の主となっているが、新人武官は拝命から三月は宮中に泊まり込みで鍛錬を行っているため、今は無人である。門に立てかけた箒を手に軽く掃除をし、残してきた書籍を数冊荷に詰める。最後に奥の部屋の棚に二つ並べて置かれた位碑の前に供物を置き、線香を立てた。じじっと微かな音を立てて線香に灯が点り、煙たい匂いが鼻腔をくすぐる。その場に座って拝礼しようとした時、すぐ隣に人の気配を感じた。先ほどまで離れたところからこちらの様子を窺っていたはずの芳玉が衣を後ろに払い、ボロの茣蓙に膝をつく。そのまま手を重ねて眼前に掲げ、三回額を床に当てて位碑を拝んだ。まるで宮中の公式行事にでも臨んでいるかのような綺麗な所作に思わず目を奪われる。
「何だ?」
「い、いえ」
慌ててそう答えてから、白檀は少し口角を上げて芳玉の方を見上げた。
「芳玉様って意外と義理堅いですよね」
「私の真心は既に陛下にお捧げしているが、君のご両親には最大の敬意を払いたいとは思っている。一応、大事な娘さんを預かっているわけだしな」
半ば茶化すように言った言葉に予期せず真面目に答えられ、白檀はなんだか恥ずかしくなってきた。形式上は夫を両親に紹介したということになるのだと気付くと、さらに照れ臭さが倍増する。
「一つ聞いて良いか?」
「何でしょう?」
「市井の者は陛下のことをどう考えている」
その問に、白檀はふっと視線を下に逸らした。
(この男もそこまでの馬鹿じゃないか)
今日一日わざわざ芳玉に街を見せて歩いたのには何も意図がなかったわけではない。貴族の邸宅が並ぶ北部から賑わう市場を抜けて、白檀の家の近くまで来ると否が応でもこの国の現状が見えてくる。
「税が年々増加して、食料を買うのにも苦労します。働き盛りの若い男は兵役に取られ、十分な報酬を得られないどころか負傷して帰っても何の手当も得られません。学問も受けられる者はごく僅かです。治安も悪化して詐欺や盗みが横行していますが、都の警備軍もここまでは見廻りに来ません。貴族との間にいざこざがあっても、金が無ければ訴え出ることもできません。都でこうなのですから、地方の農村に向かえばもっと悲惨なのでしょう。つい先日も、南部の州では税の滞納のために村が焼き討ちにあったとか――」
「陛下はそのようなことは命じていらっしゃらない!」
弾かれるようにして芳玉が声を荒らげる。それでも白檀は表情を変えずに続けた。
「そうなのかもしれませんね。ですが、そんなことは我々には関係ありません。賢帝だろうと愚帝だろうと、結果が同じならば二つに違いなど無いに等しいのです」
淡々と言葉を紡ぎながら、白檀は芳玉の顔を窺う。薄い玻璃の瞳が睨むようにこちらを射抜いていた。
(流石に怒られるか?)
それでもこればかりは皇帝の側近に言っておきたかった。白檀が後宮に入る前から、市井では皇帝の評判はあまり高くはなかった。みな新帝の即位に期待していたにもかかわらず、現状は改善されるどころか悪化の一途を辿っていたからだ。皇帝は貧しい者から税を取り立てて皇城で贅沢三昧の日々を送っているという噂すら流れているくらいだ。今となっては大体嘘だろうとは分かっているが、白檀が後宮から妃を脱出させようとしているのも、皇帝という人間を完全には信用しきれていないからなのかもしれない。
「……陛下なら同じように仰るだろうな」
暫くの沈黙の後、芳玉が口を開いた。
「確かに陛下は徒に国民を虐げるような方ではない。だが、結果としてそうなってしまっているならばそれは我々の責任だ。すまない」
そう言って静かに頭を下げる芳玉に白檀は目を見張る。
(こうも神妙だと調子が狂うな)
幼馴染だか何だか知らないが、皇帝を妄信するあまり民を顧みないような人間なら一生理解できないだろうと思っていた。それでも、たとえどんな汚い手を使おうとも皇帝と国の前にだけは誠実であろうとするのがこの男の在り方なのだろう。
「私に謝ることではありませんよ。ただ、我が国が問題ずくめなのは芳玉様もお分かりでしょう? 一つずつ、解決していくしかないでしょうね」
そう答え、白檀は微かに笑って言った。
「まずは後宮の鬼退治。私にお任せください」
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