1. 桃花

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1. 桃花

 宴当日。まだ立春という薄ら寒い時期ではあるが、桃李園の花は既に開き始めており、夭夭(ようよう)たる香を辺りに漂わせている。木から舞い落ちた花弁が園のほとりの小川に浮かび、流れていく様もまた艶麗である。  とはいえ、白檀には心穏やかに情景を楽しんでいる余裕などない。以前同僚の宮女が桃李の宴の前は仕事量が倍以上になると言っていたのは嘘でも誇張でもないようだと身を以って実感した。会場の設置に掃除、宴に出される料理や歌舞に用いる道具の準備。仕事はいくらでも湧いてくる。宮女だけでは手が回らず、重いものの運搬には武官たちまで駆り出され、宴の会場はてんやわんやである。  どうにか準備が落ち着き、宴の参加者がぞくぞくと会場へ入って来る頃には白檀はいい加減くたくたになっていた。これを宴が終わった後もやらなくてはいけないかと思うとぞっとする。  会場の準備が終わると、白檀たち下級宮女は会場の端に用意された待機場所へと連れていかれた。 (寒いから早く帰りたいんだけどなあ)  華やかな宴を前に浮足立った様子の他の宮女たちに比べ、白檀はやる気なさげである。先ほど動き回っている間に暑くなって上に羽織っていた衣を脱いで置いてきてしまったのが間違いだった。風を遮るものが何もない場所でじっとしていると、流石に肌寒くなってくる。 「さっきの宝物殿、何だか寒くなかったか?」 「ああ。冬中締め切っていたからだろ。……お前、衣の裾濡れてるぞ」 「うわっ本当だ。これ、宴までに乾くか?」  脇を通り抜ける屈強そうな武官二人組も寒がりながらそう話している。白檀が衣をどこにやったかと辺りをきょろきょろしていると、きゃあという歓声が近くから聞こえてきた。驚いて振り向くと、駕籠から一人の男が降りてくるところだった。柳の眉に切れ長の涼しげな目元、すうっと通った鼻筋に薄い唇、きめの細かい色白の肌。ともすれば女性に見間違えそうであるが、背が高くがっしりとしている体つきや襟元から覗く首筋は案外男らしい。長く艶やかな黒髪の上半分を団子に結って黒色の冠を載せ、あとはさらりと垂らしている。東風に煽られ、秀でた額にかかる前髪を時折かきあげる仕草が何とも悩ましく仇っぽい。  宮廷中から浴びせかけられる熱い視線に気づいたかのように、彼はふっとその細面を上げ、うち微笑んでから流し目でちらと辺りを見やった。舞い落ちる桃花と相まってその姿は美しくも儚げであり、辺りはほおっという声にならない嘆息で包まれた。 (これが環芳玉……。宮女たちが黄色い声を上げるわけだ)  これには流石の白檀も納得してしまった。半端な美形が出てきたら「春夜」の詩が泣くと思っていたが、なるほど「清香君」の号に恥じない姿である。    ――そうは言っても、幼い頃から実用的なものだけを愛してきた白檀には美しいものを愛でる感性はあまり備わっていない。この男がどんなに美しくとも彼女には一銭の得にもならないのだ。それよりも気になるのは彼の宮中内での立ち位置だ。  白檀が風聞したところによると、彼は香国の現丞相である環雍明(かんようめい)の次男であり、皇帝の私的な側近集団である禁伺(きんし)たちのトップ、禁伺長を務めているのだという。顔だけではなく才能もあるようで、4年前の科挙では状元、つまり主席で合格したらしい。4年前といえば彼はまだ18歳くらいのはずだ。50で合格できれば若い方だと言われる科挙において、その成績は驚くべきものである。  ただ、白檀には引っかかる点があった。そもそも何故科挙を受ける必要があったのか。なにせ父親は現丞相である。わざわざ大変な思いをして科挙を受けずとも、父親が一言口添えすれば官位など楽に手に入っただろう。それに、科挙官僚よりも世襲官僚の方が高い官職に就くことができるのは明らかだ。 (まあ、自分の実力を確かめたかったとか、そういう感じだろう)    にこやかな笑みを浮かべて宴の関係者のもとを回る芳玉を横目に、白檀は雑にそう結論づけた。
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