6. 脱出

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6. 脱出

 数日後。新月の夜。  後宮と外朝を繋ぐ極楽門の前では警備軍の宦官が三人がかりで見張りを行っている。深夜ともなれば人の出入りはほとんどないが、万が一の侵入や逃亡に備えての人員配置である。とはいえ万が一などそう起こるはずもなく、宦官たちは常と同じように仲間同士で雑談をしながら交替が来るまでの時間を潰していた。話の種も付き、三人ともがうつらうつらとしてきた夜半過のことである。 「――おい、あれ」  見張りの一人が隣の肩を叩き、紙燭を掲げた。  その瞬間、彼らは一様に己の目を疑った。  一寸先から広がる暗闇の中、紙燭の微かな灯に照らし出されているのは一人の若い男だったからだ。宦官ではない。長年を後宮で暮らした人間ならばそれくらいの違いは一目で分かる。何より、宦官である彼らが見間違えるはずがないのだ。  幼少期に去勢された彼らの身体は通常の男性からは大きく変化する。背は伸びず、体には脂肪がついて全体に丸みを帯び、姿勢は猫背になり、歩き方も不自然に前かがみの小股になる。背の高さ、肩幅、歩き方、服装、その全てが目の前の人物が紛れもなく男性であることを示していた。  後宮には皇帝以外に男がいるはずがない。いや、いてはならないのだ。しかし、身の丈が五尺二寸(187cm)ほどはある皇帝に比べ、今対峙している相手は明らかに背が低い。信じがたいことだが、今まさに皇帝陛下以外の男が後宮に侵入しているということになる。  いるはずのない幽鬼を眼前にしたかのように立ち尽くす三人に気が付いたかのように、人影は紙燭の灯の輪から姿を消した。その様を呆然と見送ってから、三人は金縛りが解けたように一斉にその場を駆け出した。 「そこの者、止まりなさい‼」  宦官とはいえ警備軍としての鍛錬を受けている彼らであったが、人影は思いのほか足が速く、敏捷な身のこなしで後宮の深部へと足を進める。これ以上奥に行かれると妃たちの殿舎の辺りに出てしまう。もしもこの男の姿が后妃や宮女たちに見られてしまえば、後宮は蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまうだろう。見張りとしての彼らの責任も重く問われることになる。死罪は免れないはずだ。 「止まれ!」  男は既に麝香宮の辺りにまで近づいている。なるべく五体満足な状態で捕えたかったが背に腹は代えられない。宦官の一人が背に掛けていた弓に手を掛けたその時、 「待ってくれ」  人影が足を止めた。こちらを振り返り、武器を持っていないとでも主張するように両手を挙げる。宦官たちはそれでも警戒を緩めず、後宮に侵入した大罪人の顔を見ようと紙燭を高く掲げた。 「――っ!」  薄ぼんやりとした灯が男の面を曝け出したかと思うと、宦官たちはすぐさまその場に片膝を付いた。 「麝香様⁉」  それもそのはず。彼らが今まで捕縛しようとしていたのはこの後宮を統べる楊太后の姪、四夫人の一人・楊玉婉だったのだから。思いもかけない不始末にだらだらと汗を垂らしながら蹲る宦官たちを他所に、麝香は「見つかってしまったか」と軽く肩をすくめる。 「お、畏れながら、そのお姿は?」  一人が恐る恐るそう切り出した。灯の下で見ても麝香は確かに男物の黒い胡服を身に着けており、長い髪を一つに結んだその姿は凛々しい若武者のように見える。 「ああ、これか。面白い宮女がいてな、陛下をお喜ばせするために何か出し物をしたいと言ったら男装してみよと言うのだ。何でも都では女子が男を演じる劇が人気だとかで、私も流行りに乗ってみたわけだ」  麝香のその説明を聞き、宦官たちは皆一様に体中の力が抜けていくような気分に襲われた。 「稽古にも飽きてきて少し外に出たのだが、この(なり)のままだったことを忘れていた。お前たちの目から見ても男に見えたか?」  宦官たちの気苦労も知らず、麝香は朗らかに笑ってそう尋ねてくる。 「は、はい。我々も思わず、後宮に男子がいるのかと早合点してしまいました。ご無礼をご容赦ください」 「よい。職務に忠実なのは責められることではないからな」  鷹揚なその言葉に宦官たちはほっと安堵の息を吐いた。見張り役としても過失はなく、妃の機嫌も損ねてはいないようだ。何ともお騒がせではあったが、ともあれ首は飛ばすに済んだ。 「そうだ、陛下のための余興なのだから上には報告するなよ。事前に何をするか漏れたらつまらぬだろう?」 「承知いたしました」  宦官たちはそう答えて頭を下げ、すぐに元の持ち場へと戻った。
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