8. 毒華

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「いつ目が覚めた? 体に異常は? 痛むところはないか?」  大声で薬師を呼んでから、矢継ぎ早に問いかけてくる芳玉に白檀は呆気にとられる。 「だ、大丈夫です……」  まだ体はだるいものの、水を口に含むと大分楽になる。外朝勤めの医官らしい男によると、白檀の茶に入っていたのは「砒霜(ひそう)」と呼ばれる猛毒だったのだという。一時は大分危ぶまれる状況だったと言うが、口にした毒が少量だったことと、応急手当てが的確だったこととで一命をとりとめたらしい。  あの日、茶を口にした瞬間に違和感に気が付き、反射的に吐き出したのが効いたのだろう。貧乏暮らしの中で培った、腐ったものを判別する能力がここで活きるとは思ってもみなかった。白檀の経験則では、少しくらい変な匂いがしていても意外といけるものだが。  二三日安静にしていれば回復するだろうと告げて薬師が立ち去った後も、芳玉は固い表情を浮かべながら白檀を布団の中に押し込め、脈を測ったり額に手を当ててみたりと忙しない。 「大げさですよ」  そう口にすると、 「死にかけていたんだぞ!」  と何故だか怒鳴られてしまった。そう言われてもなかなか実感の湧くものではない。死はいつだって日常の延長にあるのだから、人間死ぬときは死ぬ。あまり深く考えても意味はないではないか。 「す、すみません……?」  一応謝っておくと芳玉はさらに眉間の皺を深めた。そういうわけではなくて、だの何だのぶつぶつと独りごちてから、一言ぽつりと呟いた。 「……心配した」  珍しく余裕のないその言葉に内心動揺する。急いで茶化そうとしたものの、隈の浮いた目元でじっと見つめられると下手に口を開くこともできない。切羽詰まった様子は、まるで何日も寝ていないような……。 「……あれから何日経ってます?」 「丸三日だ」  返ってきた答えに白檀は目を瞠った。予想外に長く眠っていたらしい。そしてすぐに、布団の中でぼんやりしている場合ではないと気が付く。 「沈香様と麝香様は⁉」 「二人とも、無事だ……今のところ」  含みを持ったその言葉で、すぐに事態を察してしまった。毒が入っていたのは白檀の茶碗だけだったのだろう。だが―― 「麝香様は今、北衙禁軍の監視下にある。沈香様の毒殺未遂の嫌疑をかけられてな。沈香様に毒を盛ろうとして、誤って毒入りの茶碗がお前の方に行ってしまったというのが今のところの見立てだ。楊太后の意向で冷宮送りだけは免れているが、境遇としては同じだ」  あの場にいた人物の中で、最も命を狙われる立場にあるのが懐妊中の沈香だ。同じ四夫人が彼女に嫉妬し、始末を目論んだとしても不自然ではないと考えられているのだろう。 「楊家にも敵が多い。環家を始めとして、他にも後宮に妹娘を送り込んでいる家はこぞって麝香様の断罪を主張している。四夫人の座は喉から手が出るほど欲しいだろうからな。一方で楊家は証拠がないと断固反対し、今にも軍隊を動かしそうな勢いだ」  白檀が眠っている間にかなりの大事になっている。四夫人、それも皇帝の世継ぎを産む可能性のある人物に対する毒殺未遂ともなると、後宮だけの問題では済まされない。内乱一歩手前まで状況は逼迫しているらしい。 「陛下は何と?」 「……あの方は、政治に私情を挟むことはされない。調査が終わるまでは麝香様の処遇は先送りにするとはおっしゃっているが……」 「芳玉様はどう思うんですか? 陛下は麝香様が犯人だと思ってらっしゃると思いますか?」 「それは……」 「今は私しか聞いていないのですから」  そう促すと、渋々というふうに芳玉は口を開いた。 「……彼女は他人に毒を盛るような人間ではないと、そのことは陛下が一番良くご存知だろう」 「そうでしょうね。私もそう思いますよ」  麝香の性格なら、こそこそと毒を盛るよりも素手で襲う方が性に合っているように思われる。それに、万が一毒殺を目論んだとして、これだけ自分が犯人だとあからさまに分かってしまうような計画を立てるほど愚かだとは思えない。陛下だってそう思っているのだろう。しかし、皇帝という立場は個人の情で動くことをほとんど不可能にさせる。この国で一番権力を持っているというのに、つくづく不自由な人だと思う。 (芳玉様もやっぱり麝香様に死んで欲しくないのかな)  そんなことを考えてしまい、慌てて頭を振る。何にせよ、このまま手をこまねいていれば犯人が麝香ということで確定されてしまいそうだ。そうなれば、いくら楊家の後ろ盾があるとはいえ最悪処刑、良くて後宮追放は免れないだろう。白檀とて、後宮からあの闊達な妃が姿を消してしまうのは物寂しい。 「あの時、差し出された二杯の茶碗を配ったのはお前か?」 「はい」 「それじゃあ、どの茶碗を誰が飲むか、相手方の誘導があったりはしなかったか?」  その質問で、芳玉が何を考えているのかが分かった。白檀は毒殺現場に居合わせた貴重な証言者というわけだ。死なれたら困ると芳玉が焦るのにも得心がいった。 「いいですか、今から私が言うことは真実です。二つの茶碗のうち、私と沈香様がどちらを飲むかは完全に茶碗を配った私次第でした。盆の置き場所で誘導くらいはできるかもしれませんが、不確定すぎます」 「……そうか」  当てが外れたように、芳玉が呟く。盆を運んできた侍女が毒入りを沈香に差し出す予定だったのが、白檀が手を出して配膳してしまったことで計画が破綻した。誤って毒入りが白檀に行ってしまったものの、止めるわけにもいかなかった。反楊家勢力が考えるこの筋書きと状況は完全に一致している。 「それで、今から言うのが公式発表です。二杯の茶碗のうち、一杯には塵が浮かんでいた。妃に塵の入った茶碗を渡すわけにはいかないと、私はそちらを選びました」 「何を……?」 「結果、塵は毒入りの目印で、まんまと誘導された私は毒を飲んだ。つまり、最初から毒は私宛だったということです」  怪訝そうな顔をしていた芳玉は、そこでようやく白檀の意図に気が付いたようだった。  麝香が沈香を毒殺しようとしていたという推論は茶碗の配膳が無作為だったという条件の上でしか成り立たない。最初から白檀に毒入りが行くように画策されていたのだとしたら、少なくとも犯人の目的は沈香殺害ではなくなる。 「目当てが私なのだとしたら、犯人の候補も少しは広がるでしょう。万が一麝香様の無実が証明できなかったとしても、未来の皇族殺害の罪と一宮女の殺害の罪では雲泥の差です」  悲しいことに、自分が毒殺される理由というのは幾らでも考えられるのだ。芳玉のことが好きなので嫁が邪魔だった、後宮で大きな顔をしていてむかついた、などなど。 「しかし……」 「今必要なのは真実ではありません。そんなものは追々調査すれば良いのです。今はまず、嘘であろうと状況を改善させることを考えないといけないでしょう?」  そう説得すると、背に腹は代えられなかったのか芳玉は「分かった」と渋々頷いた。
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