#002 / 百腕-Never Land' II-

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 手が。  無数の腕が、西通りの地面から突き出している。  その真ん中に立ち、少女は冷たく言い放った。 「…………知らない。  そんなのどうでもいいよ。それより優奈ちゃんを返して。この人殺し」  吉岡、雛子。 「……うそ…………」  アユミの瞳が愕然と揺れている。俺も似たようなものだったろう。ただ困惑のままに注視していた。  二つに纏め上げた金髪。  ピンクのパーカーに、デニムスカートと縞模様のニーソックス。年相応の華奢な腕脚も、どこか野良猫を連想させる瞳も全く同じ。殺害される前日のままだった。  だが、バチ、と滲んだ輪郭に胸が詰まる。 「…………っ」  あんなにも生気溢れていた少女が、いまは。  残酷なまでに質量のない、幻像(ぼうれい)だった。 「畜生……」  地面に拳を打ち付ける。  なんだよこれは───────何なんだよこれは……。  「……なんで……雛子ちゃん…………」  死してなおこの世に残留する衝動。  人はそれを亡霊と呼ぶ。  ひとのカタチをした呪い。  あの無惨な死の間際に、吉岡雛子は呪いを抱いてしまったんだ。  ──呪いを抱くほどに、彼女は絶望しながら死んでしまったんだ。 「…………ああ」  血の流れる拳を握り締め、今更何をと自嘲する。  見ていたじゃないか俺は。悲しすぎる彼女の死に顔も。亡霊として残留している子供たちの姿も。ただ、考えないようにしていただけじゃないか。あいつが死んでから今日までずっと、その最悪の仮定を。 「復讐かな?」  相沢は、品定めするような笑みで雛子を見て言った。 「僕に復讐しに来たのかな。ああなるほど、合点がいった。それは仕方ないね。だって、君を殺したのは僕なんだから」 「え──?」  傍らの、天女の少女が呆然と相沢を見上げた。その戸惑いを受け流して、相沢はなおも笑みながら雛子に告げる。 「復讐を願ったんだろう? それがキミの呪いなんだろう? れっきとした悪霊だね。だが何も間違っちゃいないよ。君のように愛らしい子供が死ぬのは間違いで、殺した大人は死ぬべきだ。そう、復讐。身勝手な大人に断罪を下す。それは子供に出来る唯一の反抗であると僕は考える」 「…………」  雛子の顔が翳った。  暗い笑みで、俺たちには一度も見せなかった表情で、少女は呟いた。 「そう……あたし、復讐のために生きてるんだ?」  悪夢だった。  あの吉岡雛子が、真っ黒に淀んだ瞳で、歪んだ笑みで相沢を睨んでいる。 「うん。だって、僕が憎いだろう?」  相沢の笑みに淋しそうな色が混じる。 「ならやることはひとつだね……」  雛子が顔を上げた。  そして相沢を見つめ、静かに腕を振り上げる(・・・・・・・ )。 「死んじゃえ」  突風が商店街の闇を駆け抜けた。 「!?」  不可視の衝撃波による振動。相沢の一メートル手前の地面に亀裂が入っている。雛子が腕を振り下ろした瞬間に。 「……呪い……か」  不可視の衝撃。  攻撃性の呪い。  それはつまり、雛子を構成している呪いが憎悪であることを示す物証。  ──やはり復讐を願ったのか。それがあいつの残留してる理由なのか。 「ふん──!」  雛子が俺の横を抜け、駆け出そうとするが。 「……え?」  俺は咄嗟に。  子供たちを振り払い、雛子の腕を掴んで、止めていた。  細い腕。あまりも細すぎる手首だった。  戸惑うように見返してくる瞳に、告げる。 「……行くな……雛子!」 「やめて、雛子ちゃんっ!」  アユミも叫んだ。相沢に踏みつけられたまま。  雛子の双眸が俺とアユミを捉え、はっと澄んだ瞳を取り戻す――そして。 「………………誰?」 「え?」  心底困惑したように、少女は首を傾げていた。  無理もない。 「そうか……覚えて、ないのか」 「うん……」  アユミは崩れそうな声で言う。 「な……何言ってるの羽村くん。だって雛子ちゃんだよ? 知ってるでしょう?」  冷静なままのアユミならすぐに理解できたのだろうが、そこまで図太い相方ではなかった。  俺は額を押さえ、残酷な現実を、泥のように吐き出した。 「亡霊って存在自体がズレてるんだ。生前の人格を完全に保ってる保証はない。またその中のごく一部だけなんだよ……記憶をまるで欠けさせず、完全なカタチで維持してるのなんて」  悲しそうな少女の双眸を見上げる。  雛子は、俺たちのことを、覚えていない。  失われた関係は取り戻せないんだ。一度の死を経て、俺たちは完全な赤の他人に巻き戻されてしまっていた。 「そっか……知り合いなんだね。あたしたち」  野良猫のような少女は、泣き出しそうな瞳で俺たちを見下ろしてきた。 「ごめんね、何も覚えてなくて。大丈夫。あなたたちには何もしないよ」  いまにも消えそうな儚い微笑。  胸の奧に鉛が詰められていくようだった。 「でも、アイツは許せない」 「……行くな!」 「けど──」  俺は腕を放さなかった。  放すものか。  こんな、こんな細い腕に、人殺しなんてさせてはならない。例えそれが亡霊だったとしても。 「行かせるかよ……お前は、お前だけは向こうに行っちゃ駄目なんだ」  強く、強く腕を捕まえながら言葉を絞り出した。  顔を上げ、戸惑う少女に俺は告げる。 「……お前が行こうとしてるのは人殺しの道だろ。なら、俺はお前を止める。この手は絶対に放さない」 「…………」  しばらく迷うように目を伏せた後。 「……うん、分かったよ。ありがと」  雛子はまた、力無く、笑った。  瞳が澄んだ色を取り戻しているのを見て、俺はようやく手を放した。 「…………悪いな。使えない大人で」  心の底から謝った。  使えない。  本当に使えない、役に立たない最低の無能だ。俺は。 「でも待って。あたしの友達を奪われた」 「何……?」  微笑を消し、雛子は決然とした瞳で相沢を見た。 「あの子。優奈ちゃんっていうの。あたしが死んじゃって一人になってから、初めて声をかけてくれたユーレイ仲間なんだよ」  相沢の隣にいる、天女のようなショールを纏った少女。あいつか。 「それに……もう一人。香澄ちゃんもいない」  優奈と、香澄。  二つの名前を胸に刻んだ。優奈と香澄だ。絶対に忘れない。拳を握って立ち上がる。 「……分かった。俺が死んでも取り返す」 「いいよ。あたしが自分で取り返す」 「…………」  強気な声を当てられて、俺は隣に並んだ少女を見下ろしていた。 「これだけは譲れない。例え誰を困らせることになっても、友達だけは奪わせない」  不味いと思う反面、変わらない真っ直ぐな横顔に、心のどこかで安堵していた。 「………っ」  この気丈さ。雛子だ。やっぱり雛子のままなんだ。 「でも待て。お前じゃあいつは倒せない」  相沢は悠然と、余裕の笑みで俺たちを待っていた。  その渦巻くような黒い瞳。 「………うん、見てたよ、予知能力。でもほんとなの?」  大気に混じった黒い呪い。相沢の“全域知覚の呪い”。すべてを取り込む未来の演算。 「偽物だ。でも、結果は本物とほとんど大差ない」 「そっか……ねぇ、あたし、どうすればいい? どうすれば優奈ちゃんを取り返せるの?」  俺はギシと拳を握った。 「……この状況で無理に奪い返そうとしても、間違いなく返り討ちに遭う。とにかく一刻も早く体勢を立て直さないといけない」 「うん、それで……?」  答えはあまりにも苦い、そして正しい状況判断だった。 「戦略的撤退だ。次は必ず取り返す……我慢してくれるか?」 「……」  相沢の全域知覚。  俺には崩せないだろう。アユミにも。雛子にも。  だが先生なら、崩し得るかも知れない。  そして俺にも捨て札がひとつだけある。しかし、俺の捨て札ごときに雛子とアユミの命を賭けることは出来ない。  賭けられるとすればただひとつ。  逃亡に失敗した時の、俺の命ひとつで充分だ。 「勝つために、いまは逃げないといけないんだ……ね」  雛子の顔に迷いが生じる。  目の前で、友達が連れて行かれるのを見過ごせ。  そんな苦渋の選択だった。  泣きそうなくらいに表情を歪め、唇を震わせ、決壊しそうな心を飲み込んで。 「……わかった。それでいいよ」  文句のひとつすら言わず、従ったのだ。  利口だ。  本当に、利口な娘だ。  そこに違和感があった。  こんな風に、どんな苦い命令でも簡単に受け入れ、自分を殺し周囲に合わせようとすることは果たして健全なのだろうかと。 「そうか……そういうことか」 「え?」  利口すぎる精神。  彼女の心の影を垣間見た気がする。 「……なんでもない…………相沢!」 「うん、何だい?」  つい、とこちらを向いた微笑に拳を向ける。  特攻一秒前。  最後の体重移動を完了した俺を見て、予知能力者は静かに語った。 「言っておくけど、それが最後だよ」 「!」  予知能力者はまぶたを閉じ、現実の未来を語り聞かせる。その目が闇の中のクラゲのように暗く輝いていた。 「それが最後のチャンスだ羽村君。君がそれを成功させ、ここで僕を打倒する確率は7%。失敗する確率は12%。何らかの要因で中断される可能性が6%──そして、成功しても僕が躱しきる可能性は75%」  嘘やブラフは期待しない。  予知能力者がそう言うのならそうなんだろう。この勝負は俺の敗北だ。 「君に止められるのかな、負の連鎖。僕のネバーランド。僕たちの夢を、いまここで」  迷いを振り切る。  75%の敗北確定。  だが、もとより自爆は前提要素だ。大事なのはその後に俺が動けるかどうか。自爆し終えたあとも、最後まで残る俺が単独で体を動かし、この場から離脱できるかどうかだけ。 「は――」  大丈夫だ。失敗した所で失うのは俺一人。  雛子は逃がす。  あとは必ず、絶対にアユミが動いてくれると信じて。 「──撤退だアユミっ! 走れ!!」  そして俺は地面を蹴り、追い縋る腕たちを振り払って飛び込み前転で短刀を拾い上げた。 「雛子!」 「!」  雛子の足元に投げ渡す。 「それ持って逃げろ! 早く!」 「で、でも──っ」 「させないよ……!」  相沢が即座に、雛子に向かって駆け出そうとする。  だが、それでこちらの駒が解放されることになる。  赤い少女が即座に跳ね起き、壁に突き立っていた二刀流の片割れを引き抜いた。 「やれ、アユミ!」 「了解!」  振り回される双剣。  甲高い音が店のシャッターに突き刺さり、力ずくで引き剥がす。それを見て天女の少女が怯え、腕たちが少女を誘導して避難させた。 「相沢、ユウヤ──!」 「!」  相沢が振り返り、読んでいたと言わんばかりに笑みを浮かべ、即座に雛子を転ばせた。  豪風。  鉄製のシャッターが西通りを滑空し、予知能力者に襲いかかる! 「無駄だよ」  だが、紙一重で躱された。  続く背後からの刺突。振り上げた雛子の短刀も回避し、軸足を払ってまた転ばせる。 「うあ……っ!」 「あと頼んだぞ──」  アユミに視線を送って、俺は地面を強く強く蹴った。  空中。  風の中で、落下地点から見上げてくる、渦巻く瞳を睨み付ける。 「ネバーランドはここで終いだ」 「無理だね、君には止められないよ。君はここで死ぬ」  一連の動きを脳内でシミュレートする。記憶に染み付いた動きにブレはない。脳内で、アユミが超高速の体術を展開している。  俺は低い、地の底を這うような低い声で唸った。 「――――“六道沙門”」 「え、羽村くん!?」  相沢がアイスピックを構え、全域知覚の呪いを発動。大気を波紋が駆け抜けた。  浸蝕された予知能力者の庭園に、俺は真正面から飛び込んだ。 「!」  一打。  腕が衝突。重力を乗せた、硬い衝撃が大気を揺らす。  そこから地面に突き刺すように軸足を落とし、身体を反転。二打目は鞭のような回し蹴り上げだったが、衝撃。また防がれている。一秒の間も置かなかったのに。 「どうして羽村くん――だめだよっ!」  アユミが考案した、人体の限界を超える超連撃。打撃を次の打撃の予備動作として使い回すことにより、連撃はどこまでも重く加速していく。  ああそうだな、この前だって骨に亀裂が入った。  だが旋回するような連撃はもう始まっている。  後戻りはできない。  三打、四打、五打。  連動した左裏拳に右フックに当て身。流れるような衝撃の連なりが、一撃ごとに加速していく。自由落下する鉄球のように、一分の無駄もない連鎖構造で重量を増していく。  視線の交差に舞う砂が低速に見えた。  音速の世界の中で、迷いを振り切ってアユミが走り出す。  妨害に入る亡霊は床を叩いて下がらせる。呆然としていた雛子を捕まえ、逃亡を言い聞かせている。 「ぐ──ぅ!」  連撃を受け止め続ける相沢が苦鳴を吐いた。  渦巻く瞳に浮かぶ焦燥。  アユミとの攻防で息を切らしていた通り、例え先読みを出来たところで体は人間、相沢ユウヤの対処速度には限界(・・)があるのだ。俺の捨て札は、決死の超連撃によってそれを乗り越えられるか否かの賭けだったのだ。しかし。 (チ……!)  五撃目でとうとうバランスが崩れた。  音速の打撃がもたらす負荷は重すぎる。模倣自体もまだ未完成だった。軸足が悲鳴を上げ、体中が軋み、筋肉が千切れたような激痛に襲われる。  何より一度手放したバランスは二度と取り戻せない。視界が傾き始めていた。  そもそもこの技は、超高速と引き換えに強いられる重すぎる負荷を、アユミの怪力で丸ごとねじ伏せることで初めて成立している反則技なのだ。  骨が軋む、肉が限界まで引っ張られる、関節が潰される、崩れたバランスは取り戻せない。  ──墜ちる。 「づあああああッ!!」  だからラスト六撃目は捨て身になった。  大きく滑走した右回し蹴りに、これまでの加速をすべて上乗せ(ベット)し、最大威力で相沢の側頭部を薙ぎ飛ばすッ! 「無駄だ──無駄な足掻きなんだよっ!」 「!」  衝撃が全身に響いた。  ダメだ、防がれた。  両腕を盾にされている。越えられない。俺では相沢の対処速度を超えられなかった。  俺は捨て身だった。  宙に浮いていた身体が墜ちていく。  その中で、振り上げられるアイスピックが緩慢に見えた。  ──終わりだ。 「させないよ!」 「ぐ……ぁ!?」  相沢が即座に飛び退く。直後、不可視の衝撃が宙を穿っていた。相沢の頭部があった場所を。距離を無視する衝撃破、雛子の呪いだった。  俺は地面に墜落。その瞬間にアユミの手が差し伸べられた。 「つかまって!」 「……ぐっ!」  アユミの腕にしがみつく。頭上にはいつの間にか大穴が空いていた。アユミが瓦礫を投げつけたらしい。 「雛子ちゃんも!」  雛子がこちらに駆け寄り、アユミが抱き寄せる。飛翔しようとした怪力少女の脚に、突然何かが音を立てて生えた。 「うぐっ!?」 「お姉さん……!」 「――――ダメだね、逃がさないよ」  相沢の投げたアイスピックだった。アユミの跳躍のタイミングまで事前に読み切られたのか……!  周囲を見回す。  とうとう視認できた。  モヤだ。  蜘蛛の糸のような粘着質なモヤが、西通りのあちこちに絡み付いている。 「う……」  触れるだけで何かを吸われていく。  情報を。  演算の材料たる要素のひとつひとつを。  未来の選択肢を。 「チ──くそがっ!」  振り払う。腕力で呪いが払えるわけもないが。 「雛子、頼む!」 「うん!」  再度、雛子の衝撃破が相沢を後退させる。  そしてアユミが痛みを圧して跳躍し、浮遊感。俺たちは穴を抜け、商店街の天蓋に着地するのだった。  久しく空を見た。  そこで、衝撃が俺の身体を蝕んだ。 「ぐ……がぁぁあッ!?」  反動。  人体の限界を弁えずに六道沙門を使ってしまった代償が肉を、骨を蹂躙する。  ――怪力なんて異能力を持たない俺には、アユミの技は負荷が重すぎるのだ。 「……がんばって。しっかり立って」  雛子が俺の目の前に立ち、腕を引く。 「走れる? 走れるよね。お兄さんは、強い人だもんね」  試すような雛子の笑み。アユミを見ると、息を切らしながらも既に立ち上がっていた。負けてはいられない。 「当たり前だ。男だからな」  全身激痛で転びそうになりながら、必死で平静を装って立ち上がる。歩き出そうとしたその瞬間。 「!」  腕が、天蓋に生えた。  数は三。  それを切実な目で見つめ、雛子は短刀を構えた。 「…………邪魔しないで、お願い。傷付けたくないよ」 『──────』  腕たちは何も語らない。  ただ、雛子の真剣な双眸と刃を恐れたのか、横を通り抜けても邪魔をしては来なかった。 +  こうして逃亡劇は終わった。  沈黙の西通り。  穴の空いた薄闇の中で、相沢ユウヤは呆然と両手を見下ろしていた。 「……どうしたの?」  天女の少女が声を掛ける。相沢は答えずに、先の出来事を思い返していた。 「…………」  あの時、少年が腕を振るった。  その瞬間、確かに、未来視の脳内映像がブツリと断線したのだ。 「……呪いを、弾かれた……? ほんの一部、ごく一瞬だったけど……」  断線はとっくに回復している。ほんの微細な、違和感程度。 「……まさかね。有り得ない」  自分の集中力が切れただけだろう。そう納得して、相沢は天女の少女、優奈を振り返った。  少女の瞳にあるのは空白。  崩れ落ちていくような空白だった。 「雛子ちゃんを……殺した、の?」  言われて、心が折れそうになる。だが表情には出さない。 「……ああ。確かに、あの子は僕がこの手で、殺した」  事実だ。  どうしようもない、残酷な事実だ。 「君の知り合いだったとはね。本当、よく出来てる」  運命の歯車というやつは。  壊れる方向にだけ、奇跡的に回る。 「どうして……? あなたは、子供を助けたいって言ったのに。だからついてきたのに」  ガラス色の瞳が詰問する。相沢は目を伏せた。 「そうだね。本当、どうしてなんだろうね……」  その背中に、おぞましい気配があるのをガラス色の瞳は見てしまった。ぞくりと震える。底なしの、燃える炎のようなドス黒い怨念の塊だった。  少女の足は後退する。 「まさか――――憑かれて(・・・・)いるの(・・・)?」  砕けた意識。壊れた記憶。一秒一秒、相沢の精神を蝕んで別人に変えようとしていく呪い。  その顔に呪いの泥が滴っていた。  心を腐らされながら、相沢はついに事実を述べた。 「――ああ。僕は、僕を乗っ取られかけている。」  相沢は穴の空いた天蓋を見上げて呟く。 「そう――僕が、僕こそが連続殺人犯。子供殺しの殺人鬼なんだよ。本当にどうかしている。たびたび正気を失って、気がつけば目の前には子供の死体だ。僕はなんにも望んじゃいないのに、ただ、正気に戻れば食い散らかした罪の残骸と記憶の断片だけが目の前に残されている」  防ぐことなど叶わない。  叶うのなら、それは呪いではない。 「――――気がつけば口の中が、血と臓物まみれなんだ。……どうしようもない。本当にもう、死ぬしかない」  日々、残酷な記憶と報道に追い立てられている。  その死を待つ病人のような表情は、疲弊しきっていた。 「さて。バレてしまっては仕方ない。僕が怖いだろう? ここでお別れにしよう」  相沢は軽薄に笑う。  だが、帰ってきたのは予想外の反応だった。 「違う……それはあなたの意思じゃない。私には分かる」 「え――?」 「……もうやめて。二度としないで。目的以外で人を殺さないって、約束して」 「――――」  優奈の手が、相沢の服を必死で掴んでいた。  切実な双眸が殺人鬼を見上げる。  少女は怯えている。  恐怖を殺して、なおも相沢ユウヤを繋ぎ止めようとしている。 「きっと……きっとダメになるよ。あなた一人で終わってしまう。そんなの耐えられない。一緒に、一緒に夢を叶えよう?」 「…………」  それは、子供のわがままだ。  世の中にはどうすることも出来ない状況がある。  いまこの瞬間も、相沢の精神は蝕まれ、視界がぐるりと回って少女を破壊しようとしている。  朱色に腐り落ちる視界の中で、真っ白な存在が切実な言葉を告げる。 「子供だけの世界。きっと素敵な場所だと思う。――ねぇ、私たちの夢、叶えてくれるんでしょう?」 「……でも」 「だったら約束して。もう殺さないで。もう、これ以上……」  少女の手は、相沢を掴んで放さなかった。  相沢の胸に久しく忘れていた何かが混じる。  それは何だったろう。  言葉にする意味はない。きっとまたすぐに忘れてしまうものだろう。  ――ただ、その契約には意味があると思った。 「――わかった。約束しよう」  残せるものが、あると思った。  ようやく幸福そうに笑んだ少女に誓おう。  相沢ユウヤは、もう二度と、おぞましい呪いには屈しないと。  ……たとえそれが、簡単に現実に蹴散らされるような虚しい祈りだったとしても。 「さて、来たよ。行こうか」 「え?」  相沢が西通りの出口を見やった。  反響する足音。人影。  貴族のように一礼して、その人物は姿を晒した。 「……お久しぶりです。私が強化してあげた予知能力は、上手に使えていますか?」 「ああ、有効活用させてもらってる」  優奈は相沢の背中に身を隠し、小声で言った。 「……誰?」 「協力者さ。力を貸してくれてるんだ」  相沢は転がっていたアイスピックを拾い上げた。  曲がっている。  もう使い物にならないだろう。 「君の言った通り、子供の亡霊を五十人に増やした。これで本当に実現できるんだね? 僕らのネバーランドは」 「えいっ」  『協力者』が指を振るう。  直後、相沢の手にあったアイスピックに呪いが集う。蛇のように渦巻き蠢く。  数秒後、それは新品のように再生されていた。  相沢はあきれた笑みを浮かべた。一体どのような呪いであれば、自分の予知能力を強化し、アイスピックを再生し、子供だけの世界を創造し得るというのか……まるで想像が及ばなくて、笑うしかなかった。  『協力者』はいつの間にか相沢の真横に立っていた。  驚く優奈の髪を撫でながら、耳元にくすくすと囁きかける。 「簡単ですよ。だって、私は魔法使い(・・・・)ですから」
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