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それは背の高い、黒いマンションだった。
「…………」
四角いコンクリートの箱はどこか頼りない。周囲からも浮いていて、無理に着飾ってパーティーに出る田舎娘のようだった。
高級ではある。
お上品でもある。
けれど、いまひとつ威厳が足りない。経験不足のまま社交界に初めて挑む、新人貴族。そんな印象を振りまくマンションだった。
名はベアレーゼという。
久し振りに訪れた我が家の壁に手を触れ、優奈は静かに目を閉じた。
「…………」
煤けた壁。生きているように暖かい。住んでいた頃はどこもかしこもピカピカだったのに、住宅街の新人も時間が経過して、少しだけくたびれているようだった。
目を閉じた優奈のすぐそばを、両親に連れられた少女が通り過ぎていった。
車椅子の幻影。過去の優奈だった。
幸福そうに微笑むその少女はあの日、初めてこのマンションを見上げて、「私に似てる」なんて感想を抱いたのだった。
世間知らずで。
周囲から浮いていて。
病弱で、だけど心だけは立派な淑女のつもりだった。
もちろんそんなのは、子供のごっこ遊びみたいなものだったけれど。
けれど、弱くても、せめて大好きな両親に恥をかかせない娘でいたい。ずっと二人の傍にいたい。ただそれだけを願っていた、遠い日の記憶。
車椅子だった頃の優奈と、顔も思い出せない両親の背中が、緩やかにマンションに入って行く。
三人でエレベーターに乗り込んで、父親が五階のボタンを押す。
ドアが閉まる一瞬、過去の優奈の双眸が見えた。
髪はいまと違って肩までしかない。
あどけない笑顔には一点の曇りもなく、ただ幸福そうだった。
「……行こう、香澄」
「……うん」
幻影を追いかけるように、すぅぅと自動ドアをすり抜ける。
命を、肉体を失くしてしまったいまは、あんなに硬く思えたドアも意味を為さない。そういったものと関係を持てない位置に、自分は捨て置かれてしまったのだ。
「…………」
エレベーターのドアが閉まり、少女たちを五階に運んでいく。
ごぅんごぅんと響く音。
気が付けばまた、握った手を胸に当てていた。
「ねぇ、パパに会いに来たの?」
「え……」
視線を向けると、車椅子の少女がいた。
幻影の優奈が、車椅子から優奈を見上げて微笑んでいる。
あどけない瞳は無邪気に言った。
「会いたくなったんだね。知ってるよ、だって私たちはパパが大好きだもん」
──違う、そんなの嘘。別に会いたくて来たわけじゃない。
「そうなの? それじゃ嫌いなんだ。大好きだったパパのことが、大嫌いになっちゃったんだ」
──そうだ。大嫌いに決まってる、自分を殺した人なんて。好きなままでいられるわけがない。……いられるはずがないんだ。
「そうだね。パパに殺されちゃったんだもんね、首を絞められて」
――そうだよ。首を絞められて殺された。本当に苦しかった。
「なら、ひとつだけ教えて?」
言いながら、車椅子の優奈は車輪を動かし、閉じたままのドアに消えていく。
最後に一度だけ振り返り、にっこりと笑って。
「ねぇ優奈。あなたは、死の間際に、一体どんな呪いを遺したの?」
「…………」
音は長く響いた。
エレベーターが五階に到着し、ドアが開く。
なだれ込んでくる空気。懐かしい匂いだった。
静かに見慣れた廊下を歩く。
左側にみえる外の風景のひとつひとつ。一歩床を踏むごとに再生されていく記憶。気が付けばセピア色の中にいた。
五階に住みついた猫が足元を駆け抜けて、どこかの家からは子供の声が聞こえる。
飛び回るフィルムノイズ。
遠く響く工事の甲高い音。
くたびれた夏の夕焼けを浴び、似合わないランドセルを背負って、そうして懐かしい家に帰宅した。
「おかえりなさい、優奈」
ドアを開けると、母が笑顔で優奈を迎えてくれた。
「ただいま」
冷房の効いた家。玄関で靴を脱ぎ、綺麗に並べる。ようやく暑苦しいセミの声が遠くなった。
「やっぱりそのワンピース、よく似合ってるわね。体の弱い優奈が肩を出すなんてどうかと思ったけど、いいじゃない」
「あ──」
そこでようやく気付いた。
男物の革靴がある。
パッと顔を上げた。
「パパ、帰ってるの!?」
「ええ。今日は仕事が早く終わったみたい」
「───!」
額の汗を拭うのも忘れて、ランドセルを捨て、小走りでリビングに向かった。
呆れた声を上げる母も無視して、子犬のように駆けていく。
リビングに滑り込み、顔を上げ、そして叫んだ。
「ただいま!」
おかえり優奈、待ってたよ。
新聞を畳んで立ち上がる父。歩み寄ってきて、優しく頭を撫でてくれる。
──そんな、白昼夢だった。
「…………」
家の中は無人。
侘びしい静寂だけがあった。
父も母もいないし、夏でもない。それどころか。
「……なに……これ」
埃が積もり、長らく人の立ち入った形跡がない。
空気は停滞して濁り、あちこちが傷んでしまっている。見るに耐えない。廃墟のようだった。
「……なんで……?」
──家具の位置だけは記憶のままに。
その場所はとっくに、『跡地』と化していた。
「…………どうして」
父親がいるはずだった。
色々なものが終わってしまった。でもここに、一人取り残された父親がいるはずだったのに。
「……ごめん優奈、こんなつもりじゃ……」
香澄は戸惑いも露わに言った。
その背後、キッチンから誰かが歩み出てくる。
「逮捕されたのよ。あなたと、あなたのお母さんを殺した罪で」
「「!?」」
香澄が優奈を庇って前に出る。
だが、現れた人物を見て目を見開いた。
「西條香澄ちゃんね。元気にしてる?」
「……はい」
巫女服ではない、私服姿の早坂雪音だった。
「ああ、言っておくけどここで会ったのは偶然だからね。あたしは別に、あなたたちを捕まえてどうこうしようなんて考えてないから」
明るい調子から一転、雪音は真っ直ぐに優奈を見据えた。
「さて……あなたがここにいるということは」
口元は笑みのまま。教師のような親愛を浮かべて、優奈の前に立つ。
「……やっぱりお父さんに会いに来たのね。そりゃあ血を分けた肉親だもの、時が経てばやっぱり会いたくなるわよね。それが例え――」
優奈は、雪音が言わんとする言葉を察して身をこわばらせる。
「――――本来なら、憎むべき相手だったとしても」
「違う、私は! パパなんて大嫌い! 会いたいなんて思ってない!」
叫びが壁に木霊した。
かつて自身が殺された廃墟で。
少女は、いまにも崩れ落ちそうな笑みで誰かに叫んだ。
ぽろぽろと、透明な涙をいくつもこぼしながら。
消えてしまいそうな弱い声だった。
「私たちはネバーランドを作る。もう二度と誰にも壊させない。奪われたくなんてないから、私たちは……っ!」
そこで少女は言葉を詰まらせた。
雪音の背後からひょっこりと顔を出し、珍しくしおらしい双子が呟く。
「姉様、かえろう」
「姉様。ここ、あまり長居すべきではないなのです」
「分かってる。もう少しだけ我慢してね」
二人の頭を優しく撫でながら、雪音は変わらない微笑のまま優奈に語り聞かせる。
「……この子たちは人の思念に敏感でね。時折、その場所にかすかに残った感情のカケラさえ拾ってしまうことがあるの」
「何が言いたいんですか……」
「ここに来るなり、二人して同じこと言うのよ。一体誰の記憶なのかしらね……」
朽ちた家を背景に、雪音は穏やかに口にした。
「…………『子供は天使だな』、って台詞」
ノイズが聞こえる。その時、優奈の脳裏にまたセピア色の映像が流れた。
新しい服を買ってもらった。
はやる衝動を抑え、両親の手を引き、家に帰ればささやかなファッションショーの始まりだった。
天女のようなショールを着流し、嬉しさにはしゃぐ少女と、それを幸福そうに見守る両親。
そのとき父が言ったのだ。
『子供は天使だな』――そう言って、穏やかに笑んだ日があった。
「…………」
かつてはピカピカの新品だった、この場所で。
顔を上げると、また車椅子の幻影がいる。
錆びたコンクリートの廃墟の中で。
『……ねぇ、教えて優奈』
傷んだ本棚に手を触れ、日の光を浴びながら、無邪気な笑顔が繰り返す。
『あなたは、死の間際に、一体どんな呪いを遺したの?』
傷んだ本棚。
詰め込まれた本の種類もまばら、誰かの愛らしい好奇心を満たすためだけに作られた、そんなおもちゃ箱のような本棚だった。
いまはもう、日光を浴び続けたせいでダメになっているけれど。
「……知らないよ……そんなの、」
自分の腕を抱き寄せる。
いつか、誰かが座っていたソファに腰を下ろして。
「分かるわけ……ないよ」
苦しそうに呟く声は、煤けた壁に飲まれて消えた。
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