#003 / 天使-Never Land' III-

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「遅いぞ無能(クズ) 」 「返す言葉もございません」  再会早々辛辣を極める先生サマだった。珍しく尻餅ついている。不機嫌そうに眉間に皺を寄せているが、一筋伝った汗が、この場の苛烈さを物語っていた。  いや本当、小学生相手に苦戦してましたとか言えないな。 「……立ち上がれますか」 「無理だな。神経が痛い。しばらくは動かせないだろう」 「はぁ、さいですか」  仕方なく、俺は先生の横を抜け、一人で相沢に向かって歩く。 「……命を落とすにはまだ若すぎる。生き抜けよ、 羽村(・・) 」  すれ違いざま、視線も合わせずに、言葉だけを受け取った。 「――――」  十分だろう。  思い残すことがなくなる程度には、本音に近い声だった。 「……」  そっと、背負っていた雛子を地面に寝かせた。ブルゾンを脱いで枕代わりに敷いてやる。  腰の鞘から短刀・落葉を引き抜いて一振りすると、不思議と寒さは忘れられた。  振り返り、対峙する。 「……よう」 「…………ああ」  吹きすさぶ暴風。  攫われた紅葉たちの向こうに、血だらけ傷だらけの相沢ユウヤが、立っていた。 「ひとついいこと教えてやろうか、相沢」 「なんだよ。言ってみるといい」 「いま俺たちの頭の上にある、あれの正体はUFOだ。実はお前のネバーランドじゃない」 「そういうキミの正体は実はフック船長でね。いますぐその右腕切り落とすといい、中にがらくたが入ってる」  相沢の顔は、ただ酷薄だった。笑みのカケラもない。 「名前書いとけ。宇宙人に盗られる前に」 「鮫の海に落ちて食われろ。キミもさっさと死ねばいい」  相沢の目に映る俺は、ひどく冷たい目をしていた。  皮肉も怒りも喪失している。頭の中まで冷え切っていた。  とくん、とくん──  氷の鼓動が鳴っている。  僅かに熱を帯びていく。  その理由は分からない。ただ何かに焦がれている。いまかいまかと待ち侘びている。 「おい、さっさと殺し合えよ。クズ二匹」  横やりを入れる先生に、相沢はとうとうため息を吐いた。 「無駄だよ……羽村君。キミごときでは止められない」 「何?」 「負の連鎖は止まらない。どこの誰にも止められない。すべてを喰らっても子供たちは癒されない」  睨み付ける。相沢はいつになく感情的だった。 「アレが、あのネバーランドがお前の言う負の連鎖そのものだって言うのか?」 「違うさ。まったくの真逆だよ。あれは夢だ。現実で幸せになれず、死後も淋しく彷徨うしかなかった子供たちの、その最後に行き着く楽園なんだよ」  気怠そうな演説。ぴし、とアイスピックの先端が向けられる。 「彼らは幸せになれなかった。死んだという結果が翻ることはない。――なら、せめてみんなで幸せな夢を共有しよう。ネバーランドを築く。幸せな夢で子供たちは永遠に微笑む」  俺は黙って、上空の巨大呪を盗み見た。  壊せるだろうか。  無理だな。俺には出来そうもない。そもそも俺は非行少年であって、飛行少年じゃない。  予知能力者サマに視線を戻す。 「起きたままメルヘンするのは相方の特許だと思ってたよ」 「キミは知らないんだ。一人ぼっちの子供の惨めさを。あの世界が塗り潰される感触を。虐待され続けた子供の心理を知っているかい? 彼らは生まれてすぐに追い詰められ、壊れた環境以外を知らず、すべての家が自分の家と同じだと思い込む。だから子供が理不尽な虐待に、横暴な親に抱く感情はいつもひとつだけ」  ああ、閉塞環境での子供の心理。家という狭い場所で、抗いようのない心身暴力を受け続けた子供の感情は分かりやすい。小説で読んだことがある。回答はストックホルム症候群。 「──────“悪い子でごめんなさい”、だ」  親は悪くない。悪いのは自分だ。そんな、同情にも似た心の牢獄がある。 「子供は心から親を責め嫌悪するということを知らない。未熟な子にとって親というのは絶対のルールにして世界そのものなんだ。それどころか、決して間違いのない神だとさえ思わされている」  小さな世界の中に在って、しかし子供は『自分が未熟である』という事実だけは理解している。  ただ問題は、その未熟さを取り違え、歪んだ状況を『これが普通なのだ』『自分が未熟なせいなのだ』と思い込んでしまうことだ。 「だから子供たちは自己の存在を最低以下まで貶めていく。親ではなく、自分の方が間違っていて、生まれつきクズだったのだと擦り込まれる。自分の魂に“否”というレッテルを貼ってしまった彼らには決して幸福な未来は訪れない。何故なら、自分の存在そのものが“否”なのだから。そうやって精神を癌細胞に汚された人間は取り返しがつかない。――ほら、こんな簡単に子供は壊れる」 「…………」  確かに、それはどうしようもない袋小路だ。  幼い子供は親に服従せざるを得ない。たとえどんなに間違ったことをされても、それが正解なのだ、という前提で家の中では推し進められていく。  三つ子の魂百まで。  その言葉に従うならば、開始からわずか三年で一生涯を破綻させられる子もいるのだろう。  ――――そこまで聞いて、違和感が明確になった。  相沢の視点は、どこか歪んでいる。  子供たちに引きずられすぎていたのだ。 「お前――――――――まさか、視た(・・)のか。その、呪いの眼で。」  俺は、短刀の切っ先を、相沢の渦巻く瞳に向けて言った。  相沢は壊れた無感情で告げる。 「ああ。視たよ。僕はいままで、たくさんの子供たちの悲劇を『全域知覚』してきた」  相沢の予知能力は、情報の収集によるものだ。  記憶さえも、我が物にすることができる。  だが、それは、禁忌の自滅行為だ。 「………お前は、まだ相沢ユウヤか? それとも狂った呪いが喋ってるだけか?」 「どうだろう。殺され続けた子供たちの、死の記憶の鏡像とも言える。記憶は、人間の人格そのものだからね」  予知能力者・相沢ユウヤは、子供たちの悲劇から目を逸らせなかったのだろう。  無数の子供たちの悲劇を知覚し――――そして、予知したのだ。変えようのない、無数の悲劇の結末を。  死んでしまった子供たちの数だけ、  歪んでしまった子供の数だけ、  そのすべての絶望的な過去と未来の先の先まで予知したのだろう。  目の前にそびえ立つ、歪んだ運命の大樹を幻視する。  予知できていながら止まらない歪みの連鎖を前にして、相沢ユウヤは絶叫した。 「どんな幸福も……どんな愉悦も、どんな快楽もどんな名声もどんな殺人も! 何をしていても! 壊れた子供は永遠に安息できない! 死ぬまでカタチのない何かに責め立てられて、理由もなく藻掻き続けるだけの故障品なんだッ! 誰にも理解されないままに! 何にも救われないままに! 胸に巣食った地獄に焼かれて死んでいくんだッ!」  相沢は血走った目で、喘ぐように叫んだ。  慟哭が暴風を掻き消す。  静かな怒りを秘めた目で、相沢は俺に言った。  「……さあ、現実を見ろ。殺された子供の死に顔を見ろ、生き地獄で苦しむ子供の、血まみれの泣き顔を頬に押し付けられて見ろ。女児誘拐殺人の被害者はどうだ。報道規制を剥がせば間違いなく性暴行を受けている。死ぬまで暴力を受け続けた子供が書かされた、ひらがなだけの反省文を読んだことがあるか? なぜ雪国でもないのに凍傷になる、なぜ脳が萎縮するほど衰弱する。このご時世に何故か餓死した兄弟は? 骨を折られたまま病院にすら行かせてもらえなかった子供はどうだ。愛人の機嫌を取るための生贄に選ばれてしまった子供は? ――信じていた兄に、幼馴染みを目の前で食い殺された少年なんてまだ軽いほうだった」 「…………」  何が自我で、何が呪いなのか。  どこまでが相沢ユウヤの慟哭で、どこからが死した子供のたちの怨念なのか。その全身から、真っ黒な呪いと幻聴が染み出していた。 「僕らに夢を、君らに悪夢を」  相沢は、希望に満ちた瞳で、上空の小惑星を仰いだ。 「真っ白で……太陽のない世界を教えてあげるよ。どこにいても居場所を感じられない断絶を教えてあげるよ。何をしていても幸福になれない、どうやっても逃げ切れない、そんな子供たちの絶望を教えてあげるよ」 「……そうやって負の連鎖を続けるのか、お前まで」  みし、と相沢の呪いの双眸が俺を睨み据えた。俺は続ける。 「要は、幼少期に幸福になれなかった子供は、永遠に不幸なままって話か。つまんねーよ。お前の哲学は最低にクソくだらないね。なぁ、お前もそう思うだろ?」  俺は声を投げかけた。 「…………っ」  眠っているように見えた雛子が、目を開けて、静かに涙を流していた。  少女は悲しみに顔を歪めている。  ただ静かに。  胸の中の絶望を苦しそうに押さえて、言った。 「……うん。あたし、そんなの、信じたくない」 「嘘だね。キミも同じだ。キミはどう考えたって、こちら側の人間だ」  相沢の全域知覚が、少女の感情を掬い取り、心から憐憫の情を向けた。 「キミの心が手に取るように分かるよ。本当は虚しいんだ、何をしていても。たくさんのクラスメイトに囲まれて、その中心で笑い合っている時でさえも……キミは、吉岡雛子をデキソコナイだと嘲っているんだ」 「そうだよ。あたしはデキソコナイの駄目な子なんだよ」  涙が溢れ、雛子の瞳がつらそうに細められる。 「お母さんはいつもイライラしてた。きっとあたしのせいなんだよ。だからイイコになろうって思ったの。すっごくがんばったんだよ。いつもいつも百点とって、徒競走でも一位になって、友達だってたくさん作って、可愛く笑う練習だっていっぱいしたんだよ。  だけどどんなにがんばってもだめなんだよ、どんなにがんばって言うこと聞く子になってもだめなんだよ。あたしデキソコナイだから。お母さんはやっぱり笑ってくれなかった。……あたしが悪いんだよ」  利口すぎた少女。  自らを殺し、必死で周囲に合わせようとする精神傾向。  ──『過剰適応』。  それが、雛子に残された、永遠に消えない爪痕だった。 「そうだ……お前は、ある瞬間には『利口すぎた』」  まるで自分の心を折ることに慣れているようだった。  過剰適応とは、相手に合わせるあまり自らを破壊してでもその場に適応しようとする、いきすぎた承認欲求の発露だ。  人に合わせるのは普通のことだが、それも度が過ぎれば病となる。  その中でも、雛子のそれは自らに人権を認めないほどの天秤の偏りだった。 「…………あはは。」  体を起こし、座り込んだ雛子は、笑顔を見せた。泣きながら、何かが欠けたような目をして。気遣う俺たちを安心させるために、空っぽの心を押し殺してすっからの笑みを浮かべてみせたのだ。  そうやって、自らの感情に何の価値も置かないことが、十歳かそこらの娘として間違っている。 「雛子ちゃん、違う。雛子ちゃんは何も悪くなんてないんだよ……」 「……」  アユミの真っ直ぐな声にも、違わない、と雛子は頑なに首を横に振った。  自らの魂に“否”のレッテルを貼った雛子は、おそらく永遠に、自身を壊しながら他者を優先し続けるのだろう。  重々しい沈黙が、その場を支配していた。抜け出しようのない暗い深い場所で沈んでいくようだった。  頭上のネバーランドが、重々しい唸りを響かせている。  絶望に落ちていく暗闇の真ん中で。 「――――――でも、」  雛子が立ち上がる。  ごしごしと涙を拭って。 「…………こんなあたしでも、死の間際には綺麗な夢を願った」 「――何?」  相沢が、真っ直ぐに見返してくる雛子を見た。 「悪夢なんかじゃない。とても優しい夢を見た」  ああ、知ってるよ雛子。  お前は――本当に。本当に、前向きな娘だ。 「何を言ってる。……優しい夢? ああそうか、キミもやはり、ネバーランドに協力する気になったんだね」 「違う。あんたのネバーランドなんかとは絶対に違う」  強い声に、相沢が訝しむ。  星を呼ぶように、雛子は手を前に差し出したのだった。 「…………見せてあげる。これが、あたしの、」  そうして、雛子の呪いが具現化していく。  星屑を散らして、象られていく。 「人生最後に抱いた呪い(・・・・・・・・・・)。」  彼女が最期に願った何か。  手の中で、輝き始める。  復讐なんかじゃない。絶望でさえない。  不可視の衝撃波を、幾度も幾度も振りまいていた力強い呪いの正体。  燐光を散らして現れたそれは────  1本の…………見覚えのある、金属バット(・・・・・)だった。 「……野良猫だったあたしに、とっても優しくしてくれた大人たちがいたの。すごく嬉しかった。すごく楽しかった」  これが、ずっと手の中にあった回答。  衝撃波を生む呪いの正体だったのだ。 「だから……約束した。大切にするって約束したんだよ。どこかに失くしちゃった、あたしの……大切な大切な宝物」  あの日、あの夕暮れの公園で。  影に覆われたひとりぼっちの少女がいた。  強がりな瞳は痛々しくて。  傷だらけの野良猫はどこか孤独で。 「あたし、ね? ホームラン……が、打ちたかったんだよ……また一緒に遊んで欲しかった。がんばってホームラン打って、すごいねって褒めて欲しかった」  目を伏せ、返ってきたバットの感触を抱き締めて、雛子は俺を振り返った。  笑顔で、雛子は泣いていた。 「…………それだけで、よかったんだよ」  その双眸は、いつの間にか、あの日の輝きを取り戻していた。  ようやく思い出したのだろう。  出会い頭のドロップキックも。  飲めないコーラの刺激的な味も。  アユミにもらったコンビニパンも。  焼け焦げたボールの鮮烈な思い出も。  ――あの笑顔も、あの輝きも。ぜんぶまとめて、雛子の遺した(ねが)いだったんだ。 「なんだよ……それ、は」  相沢は、心底苦しそうに叫んだ。 「復讐を願えよ! 虐げられたままで終わるなよ! それで本当にいいのか!? 奪われたままでキミは、黙って死んでいけるのか!?」  相沢は、自分の首にアイスピックを突き付けた。 「僕を憎めよ! 憎んでいい、その権利が君にはある! そんなんじゃキミは、ただ一方的に! 奪われたまま、傷つけられたままじゃないか!!」 「あんたを許すことはできない。でも、奪っても癒されないから」  激しい声を遮るように。 「押し付けても終わらないから」  雛子は、凛とした声を響かせて、祈るように胸に手を当てた。 「だから、あたしたちに出来るのはね? たったひとつだけなんだ」  相沢にまっすぐ向き合う。 「傷を堪えて……痛みを押し込めて」  暗い記憶に、一瞬だけ、淋しそうに目を伏せて。  しかし少女は、絶望を振り払う。 「それでも元気に前向いて、一生懸命笑うことだけなんだよ」  そう言って、吉岡雛子はまっしろに笑った。  透き通った青空のような瞳で。  小さな両手に、大きな夢を大切に抱き締めて。 「……いいだろ、子供は。無邪気でさ」  俺は小さな三振王の頭に手を置いて、乱暴に髪を掻き回した。ぐしゃぐしゃと。 「ちょ、なにす――」 「こいつらは可能性に溢れてる。まだ未知の領域がたくさんあるんだ。まだ知らないこと、知らなくていいことも、たくさん」 「…………もう」  雛子は不満そうにふて腐れた。  俺はそれに笑みを返し、顔を上げる。 「答えろ、相沢ユウヤ」  相沢は、愕然と肩を震わせていた。  もう分かっているはずだ。  声が聞こえる。  頭上から、無数の悲痛な呼び声が。 「子供たちを、お前の作り上げるネバーランドに逃げ込ませるっていうことは…………こいつらの、現実の希望を諦めさせるってことだ」  そうだ、現実を見ろ。  目を逸らすな。 「お前はこいつらの未来も可能性も、ぜんぶ纏めて否定するってのか? そりゃあんまりだろ」  びくりと、予知能力者の肩が震えた。 「そ……れ、は……」 「ユウヤ、君……」 「!」  か細い声に、俺たちは揃って目を向けた。 「な、優奈ちゃん!?」  ふらふらと、いまにも倒れそうな足取りで、宝生優奈が現れた。  相沢が駆け寄ると、優奈は崩れ落ちてしまった。 「なんだ……一体何が……!」  すぐさま抱き起こし、全域知覚が優奈の異変を診断する。 「背中……呪いか? 何なんだ、これは……」 「共鳴してるんだろ」 「何……?」  ぽつりと、先生が口を挟んだ。 「似通った呪いが共鳴し、融合して魔王現象となる。同じだ。いままで無理矢理押さえ込んでいたそいつの呪いが、正体を表した吉岡雛子の呪いに誘発されて具現化しようとしてるんだろう」  先生は、哀れみの目で、苦しみ続ける少女を見下ろしていた。 「――――諦めろ、宝生優奈。もうどうやっても隠しきれない」 「違う……わたし……こんなの、望んでない……っ!」  優奈は、息を切らしながら相沢を見上げた。  いまにも折れそうな笑顔を繕って。 「違うんだよ、ユウヤ君……わたし、わたしは……っ!」 「…………やめろ……やめるんだ優奈ちゃん……」 「大人を……そう、大人たちに仕返しを……」 「亡霊が自分の根幹を押さえつけるなんて……だめだ……消えてしまう」  優奈の輪郭がバチバチと霞む。  それを見て、相沢はきつく目を瞑り、誰にともなく叫んだ。 「もういい! 誰でもいい、彼女の呪いを解放してくれッ!!」  ガラスの割れる音が鳴る。  舞い散る破片の色は白。  駆け込んだ香澄が、優奈の背中に手を触れていた。  そうして、優奈の背中で、彼女の願いが花咲くように具現化していた。白い白い雪の中で。優奈の唇が小さく動く。 「…………パパの天使でいたかった」  そうして少女は、自身の(のろい)を告白した。 「パパが、子供は天使だな、って言うから……だからずっと……ずっとパパの天使で居続けたかった」  相沢の腕の中で、優奈は、淋しそうに笑った。 「本当はね? いますぐにでもパパに会いたい。裏切られた後でも、ずっと信じ続けていたかった。会って昔みたいに笑いかけて欲しかった。そう思ってこの世に残ったんだよわたし……バカだよね。こんなの、いまさら叶いっこない願いなのに……」  そう言って目を閉じ、宝生優奈は自身の呪いを撫で、一筋だけ涙を流した。  背中に生えた、庇護の象徴。  愛される天使に相応しい、真白い、雪のような両翼(・・)を。 「冗談だろう……優奈ちゃん、君は、その父親自身に殺されたっていうのに…… 」  叶うはずのない願い。  叶わないからこそ、それは呪いになるのだ。  そういえば、どこかの双子が言っていた。 「………確かに。あれは、 飛べない(ペンギン)の恩返しだな」 「うん。いろいろあって、やっと取り戻したんだね。綺麗な、大切な願いを」  そんなメルヘンな光景を、俺とアユミは遠巻きに見守った。 「……知ってたよ。仕返しなんて、無意味だって。本当は自分自身さえもそんなの望んでないって」 「優奈ちゃん……でも」 「ユウヤ君も、同じなんでしょう? その予知能力の呪い。」 「……違う。僕は君たちとは違う」 「知ってるよ。わたしには分かる。わたしたちは友達で、似たもの同士だもの」  頬に触れ、宝生優奈は間近から相沢を見上げた。とても幸福そうな、曇りひとつない純真な笑顔で。 「その呪い……大好きなお兄さんのように、なりたかったんでしょう?」  言われて、相沢は言葉を失い、顔を伏せた。  記憶を手繰るような沈黙の後で、諦観するように言ったのだ。 「…………そうだね。兄貴はなんでも知っていた。子供の頃、未来が視えてるんじゃないかと思っていたこともあったよ」  子供はどこまでも純粋だから。  彼らはみな、邪悪な呪いではなく、綺麗な祈りしか抱けなかったんだ。  子供しかいない世界じゃなくて、大人と笑い合える世界が欲しかった。  手を取り合って歩きたかった。  たとえそれが、絶対に叶わない願いだとしても。  それでも一心に祈り続けた。  絶望まみれの死の淵で。  ひとりぼっちの雑踏の中で。  あるいは誰にも気付いてもらえなくなった死後でさえも。  雛子も優奈も、理不尽に死んでしまったみんな、子供たちは見上げていた大きな背中と一緒に。  ────()()()()()()()()()()()()()()()()()()。  けれど現実は無惨だ。 「ユウヤ、君……ネバーランドは。あの、魔法使いは…………」 「何……?」  優奈に言われて、相沢の双眸が、空の悪夢を見上げた。全域知覚の呪いが真実を解析し、回答を告げる。その表情が、温度を失った。 「……そうか。また裏切られたんだね、僕たちは」  淋しそうに笑う相沢。 「…………うん」  ためらいがちに、優奈はうなずいた。 「僕の目で視えるってことは、もう隠蔽するつもりもないってことか。みんな苦しそうだ――ひどいな。あの魔法使いめ」 「なんだ。どういうことだ、相沢」 「ネバーランドは失敗作だったってことだ。……だが、これ以上好きにはさせない。何が狙いか知らないが、仕返しに派手にブチ壊してやろう」 「……けど」  優奈の言葉に、相沢は首を横に振る。 「迷ってはいけない。あれはもう、誰の望みでもない。そうだ――――せっかく翼があるんだ。頼むよ優奈ちゃん」 「…………」  しばし、優奈は相沢を見上げた。長く決意するように沈黙した後で。 「……わかった」  立ち上がり、少女の翼が強い風を巻き起こす。  空に悪夢。  手の届かない距離だが、目の前には天使。ならやることは決まっている。  しかし、ひ弱な優奈では攻撃力が足りない。  俺たち狩人では体重が重すぎる。  だから、優奈は親友を見た。  「雛子ちゃん」  天使の右手が差し伸ばされた。  神々しい白色と、固い決意が少女を装飾している。  目的地は空。  さぁ、閉幕の時だ。 「行ってくる」 「ああ、行ってこいピンチヒッター」  パシン、と手を叩き合った。  ピンクパーカーの背中が元気に駆けて、天使の手を取り、二人してロケットスタートを切った。  吹き飛ばされそうな突風を残し、亜音速で空に翔け上がる。  それを見送ってから、相沢は静かに立ち上がった。 「……目的は潰えた。希望だった少女も手放した。悪霊に憑かれたくさんの子供を殺して、罪滅ぼしのネバーランドは大失敗だ。ねぇ羽村君。いまの僕に、一体何が残っていると思う?」  相沢の手は、強くアイスピックを握りしめていた。  その目は全域知覚の呪いを発動している。  禍々しい予知能力に絡みつかれながら、俺は言った。 「未来とか可能性とかだろ。宝生優奈を見守ってやれ、バカ」 「断る。あの子は僕と出会ってはいけなかったんだ。どうにも、僕と彼女が一緒にいると、どこまでも二人して堕ちていく運命らしい」  一歩、踏み込んでくる。  先生とアユミが緊張の面持ちで立ち上がった。構わず相沢は進み続ける。真っ直ぐに、俺に向かって。 「ねぇ羽村君、呪いに憑かれた人間がどうなるか知っているかい? 僕は常に呪いに抗って生きてきた。次また衝動に負けたらどうなる? 自身の呪いに精神を浸食されきってしまったら? そうなれば相手が誰だろうとお構いなしだ。かつて以上に無差別なバケモノになり、あの子をあの子と認識することもなく食い荒らす。冗談じゃない――」  そして、五メートルの距離を挟んで、アイスピックをこちらに向けた。 「そこを通してくれ、狩人。僕はいますぐこの街を出る」  それは俺たちへの宣戦布告だった。  しかし、双眸にある光は違う。声にだって敵意はない。あれは、いつか見た、死を待つ病人じみた表情の―― 「……死にたいのか、お前」 「ああ。殺したくないのさ」  変わらず暴風が駆け抜ける。  舞い散る赤葉の中庭で。  膠着していく空気を破壊するように、先生が、絶叫した。 「留まれ、この大馬鹿者がッ!!」  相沢に向かって、先生が無事な方の片足で跳躍する。まったく同じタイミングで相沢もスタートを切った。  轟音。  空から落ちてきたアユミの一閃、隕石のような打ち落としが、相沢のわずか一歩の横滑りで躱される。 「っ!」  手を伸ばすアユミの顔が、相沢を見送って悲痛に歪む。  アユミはナイフを使っていない。素手で、致命傷を与えずに止めるつもりだったのだ。 「はっ!」  続けざま、予知能力者は身を翻して背後を見た。  先生の背後からの刺突が空を切り、反撃としてその右膝に痛打を与えた。 「ぐぁ――」  痛めたばかりの右膝に、突き刺さる相沢の踵。  負傷しているとはいえ、予知能力者は瞬間的に先生の動きすら読み切って見せたのだ。  崩れ落ちる先生をそのままに。 「るあああああああああああああああああああああああっっ!!!!!」  相沢がケモノの声で絶叫し、駆け込んでくる。  全域知覚の呪いがバチバチと悲鳴を上げる。  大気を塗り潰して渦を巻く。  訴えてくるのは悲しみだった。頭の中に、膨大な映像が、直接流れ込んでくる。  涙を流す子供の映像。  幼い少年は傷だらけで、血涙を流しながら、憎しみに顔を歪めてこちらを睨んでいる。  失意。失望。絶望。裏切り。  かつて見上げた背中があった。  誰よりも強い尊敬を、誰よりも強い失望に変えた少年がいた。  黒い地獄が心を燃やす。  あの夜、近所の公園の公衆トイレで兄はまた、性懲りもなく子供を殺していた。  バチバチと蛍光灯が点滅し、蛾が飛んでいた。  血に染まったコンクリート。  悲痛な子供の凍りついた表情。  少ない肉を食い荒らすケモノの姿。  違う、こんなのは間違っている。  ケモノの背中に、何かが視える。死んでしまった子供の生前と、死の瞬間の絶望と、数秒後に兄が取ろうとする行動が視える。  まるでその未来に命令されるように、無意識で兄の腕をかいくぐり、その心臓に尖った鉄パイプを突き立てていた。  何かおかしい。  鏡に映された自分の両眼には、渦巻く呪いが発動していた。  ――そこから、意識が混濁する。  終わらない乾き、飢え、渇望、呪い。  正気に戻れば目の前に、食い荒らされた子供の死体がある。  兄の凶行。今度こそ殺さねばならないのに、どこにも兄はいない。  自分の口の中に、内蔵の食い残しがあることに気付く。  理解不能。  壊れている。  正気を失い絶叫する。  何も覚えていない。  少年はいつしか両手を血に染め、歪んだエガヲで咽び泣くようになっていった。  殺した。  殺した。  何人も何人も殺し続けた。  ……それでも終わりはなく。  親を殺した。  子供を殺した。  いつか終わると思ってた。  いつまでもいつまでも殺し続けた。  背後に、見えない罪の山が積み重なっていることには気付いていた。  それでも呪いは止まらない。  血涙は止まらない。  殺戮は終わらない。  ただただ、正気の間に、まるで罪滅ぼしのように全域知覚の呪いで子供たちの死と絶望を蒐集し続けることしかできなかった。  そうして、子供好きだった少年は、正気の時も狂気の時も子供の死を蒐集し続けることとなった。  どこまでが自身の意識かさえも分からない。  空に叫ぶ。  ケモノの声で。  ……そうして私は居場所をなくし、太陽のない世界を彷徨うことになる。  ……出発地点は遠すぎて。  ……作り上げた血溜まりは深すぎて。  かつては無邪気に笑んでいた、けれどどこかで壊れてしまった、ある少年の成れの果て。  それがこの予知能力者(バケモノ)の正体だった。 「がぁぁぁああああああああああああああっ!!!!」 「――バカだよ、お前」  きん、と短刀を投げ上げる。  決着の時。  徒手空拳に刃物はいらない。頭上高く、短刀・落葉が舞い上がり煌めいていた。 「――――手遅れな奴なんて、きっといないのに」  俺は六道沙門の第一撃を、渾身で放った。  相沢の全域知覚が発動。腕と腕が衝突し、衝撃を撒き散らした。 「この馬鹿! それじゃ勝てないって分かってるだろうが!?」  先生の絶叫、それでも強引に押し進める。  二撃、三撃と当然のように防がれていく。敗北の再現。これで乗り越えられるとは思わない。  ……大体の話。勝てる要素なんざ、どこにもないんだ。 「――――」  夜空を駆ける天使の翼。風を突き破って飛んでいく。  ネバーランドまでの空を遮るように、巨大な腕が具現化し、幾重にも襲い来る。呪いに、絶望に象られた悪夢を弾丸のように潜り抜けていく少女たち。  ……繋いだ手は硬く。  ……瞳の光はただ強く。  どこまでもどこまでも、一心に前だけを見つめて行く少女たちの横顔。 「らあああああああああああああああああああっ!!!」  その真下で、俺は敗北の第六打を蹴り上げた。 「づ――ぁ――!」  両手ガード。  まただ。  また防がれている。  超えられない、人外の壁が立ち塞がる。所詮は見習いの無能力者、ここらが俺の限界なのだろう。  なにせ捨て身の跳び蹴りだ。  体勢もバランスも糞もない。半端な模倣の限界が、確固たる死として俺に立ちはだかる。  振り上げられるアイスピックが緩慢に見えた。  ――見ての通りの有様だ。  未来だの可能性だのと言ってみたところで、そこは所詮俺である。口八丁。羽村君はね、達観しすぎてて若さが足りないのよとはどこの巫女さんの進言か、本当に失礼千万な人である。あのですね。本当のこと言わんで下さい。  ああ――終わった。  胸中で、クセになっているため息を吐く。  人生最後の瞬間に。 「――――ぁ」  見てしまった。  銀色を。  視線の交差に滑り込む、銀の鋼を見てしまった。 「……え?」  遠く、アユミが小さな声を上げた。  銀色が滑り込んでくる。  形は刃物。銘もよく知ってる。  上空から割り込んできた短刀『落葉』を、相沢ユウヤは視てしまった。 (そうか……)  胸中でいっそう呆れかえる。  俺は本音では、未来も可能性も信じないクチだ。  今日明日が平和なら、それ以上はどうだっていい。努力なんて不毛だし、必ず結果がついてくるものでもないと思う。  しかし、逆にまったく結果がつかない (・・・・・・・・・・・)というのも、それはそれでおかしな話なわけで。  狩人としての鍛錬。敗北からの学習。見出した理屈のその先へと手を伸ばし、この一瞬を狙い澄ました結果。 (人間……やれば意外と、出来るモンなんだな)  そんなことを、生と死の狭間で初めて学ぶ俺・羽村リョウジなのであった。 「“七道沙門(・・・・)”─────ッ!!!」  斬、と終末の音が鳴る。  まるで杭打つように、俺の左裏拳が短刀の柄に衝突し、切っ先を相沢の胴に食い込ませる。 「がは ッ!?」  赤い衝撃。破裂するように駆け抜ける。  六道沙門の回転加速すべてを載せた、最後の最後の最後の一撃。  骨が砕ける感触を最後に、俺は重力のままに自由落下し、相沢は血反吐を吹きながら後ろへ崩れ落ちていく。  相沢は、視えていた。  だが、視えることと防ぎきれることとは違うのだ。  この一瞬に、無能力者が予知能力者の対処速度を奇跡でもいいから超えられるかどうかが勝負のすべてだった。  ――わずか一手、されど一手のもとに伏す対処速度の壁。  受け身もクソもなく背中を打ち付ける。  七道沙門の反動で、もはや全身が砕けたも同然。激痛に神経を焼かれるのみだ。  諦めて大の字になると、空に広がる絶望色の大海原が視界を埋めていた。  空からは、天使の羽根が降り注ぐ。まるで何かを祝福するように。 +  空を翔ける白羽の天使と、それに手を引かれた未来のスラッガー。  幾つもの腕が、呪いが二人に襲いかかり、握り潰そうとする。  鬼のように太く大きな腕だった。  それが、幾つも、幾つも具現化しては襲い来る。トラックじみた威圧だった。  絶望だらけの月もない空。  過酷を前にして、けれど少女たちは懸命に空を翔け抜けた。  亜音速の飛翔。  弾丸のように、風を突き破って。  滑走の音、衝突の音、搾り出した強い声。  くぐり、叩き落とし、時に激突しながら、それでも一心に前だけを見つめて往く。  傷だらけになっても繋いだ手だけは決して放さない。  最後の腕をバットが打ち抜く。  霧散していく雲のような呪いを抜け、二人の目には目的地が映った。  赤黒くうごめく、ネバーランドの小惑星じみた表面。  絶望と、希望が間近に対峙する。  そして少女は挑戦的に笑んだ。その時。 「……世界のすべてが……僕を、拒否する……」  ひび割れた声が、俺の足下から浮遊してきた。 「…………居場所がないんだ……希望も、ない……」  相沢は仰向けに倒れ、口から血を流し、暗く濁った瞳のままで呟き続ける。  それが相沢の絶望なのか、子供たちの絶望なのかはもはや分からないだろう。  正気を失ったように、呪いは呻く。 「一人ぼっちの……子供は、惨め……で……愛されることも、な、く……野垂れ、死ぬ……だけ」  孤独な手がだらりと掲げられる。  夢も希望も手放して、ついには命さえも手の平からこぼれ落ちていく。ざらざらと、虚しい音を立てて、消えていく。 「…………まっくらだ……真っ黒に、塗り、潰さ……れ、て……る」  ついには目を伏せた。  残酷な現実に、耐えきれなくなったように。  もう何も見なくていいように。 「……」  そんなネガティブ全開な相沢に、羽村リョウジの一言格言など探してみた。  特にない。  疲れた溜息。ぼりぼりと頭を掻いて、俺は諦めた。 「顔を上げろよ」 「え……」 「見届けてやれ」  死に体の男が億劫そうに目を開ける。  空の花火に、俺も笑った。 「────特大ホームランだ」  空が激震する。  荒々しい衝突に。  一際大きな衝撃が波涛となって駆け、街全体を揺るがした。  相沢が殴られたように目を見開く。  雛子のバットが、巨大な呪いに突き刺さり、完全に振り抜いていた。 「じゃすとみぃぃぃとぅッ! いえー! よっしゃ、もう一発いくよ~っ!!」  掲げられるバット。力いっぱいのスイングに目を細める。 「雛子ちゃん落ちちゃうよっ! つかまって!」  物言わぬ小惑星にもう一撃加えた。衝撃波の呪いを何重にも重ねた、雷轟のような衝撃に鼓膜が殴打される。そんな元気ありあまる少女を掬い上げ、天使が慌てて空に離脱していく。  打ち砕かれた悪夢。  隕石でも衝突したように割れて、均衡を崩し、自壊していく。  舞い散る呪いと舞い散る白羽根。  黒と白の雪を見上げて、相沢の声が感嘆に震えた。 「ああ……笑ってる、ね……」  無邪気な笑顔が二つ並んで、遠い空ではしゃいでいた。 「綺麗だ……あんなにも気丈で……どうして、あんなにも、逞しい……」  そんな二人を見上げて、この場にいる者もみな笑っていた。  悪夢が割れ、その隙間からようやく月明かりが差し込んでくる。  穢れなき白の両翼が、ゆっくりと、光を浴びながら下降してくる。 「つらかったろうに……苦しかった、ろう、に……っ」  見下ろすと、相沢の顔が憐憫に濡れていた。  誰よりもよく知覚していたのだろう。  あの二人の、心が砕けるような人生を。そこにあった絶望の深さを。  だがそれでも、相沢ユウヤは少女たちに向け、慈愛の瞳を浮かべた。 「やっぱり……子供は、笑顔が、一番……だね」  ああ、と俺は頷いた。  消えゆく怨嗟の風の中、光刺す夜の戦場で。 「そりゃ、子供だからな」  耳に残る福音の音は。  振り抜いた金属バットが奏でる、ジャストミートの快音だった。
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