#001 / 黒塗-Never Land' I-

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 ──地方県、縁条市。  この街を記述するのにうってつけの言葉がある。「日に日に錆びていく街」だ。  それなりの土地を有しながらも人口密度は首都の1/x程度しかなく、国の恥と言われる自治体の財政破綻事件後、そこから県に実質完全吸収される形で微かに生き長らえたこの街は本当に半端な存在だと思う。  街の様子は薄暗く薄汚い、時代遅れの残骸。  年に何回か近所で飲食店がオープンされてはすぐ潰れ、カビの生えたような赤字スレスレ黒字(だと店長は言っていたが実質は不明。もしかしたらおもいっきり赤字なのかも)のコンビニだけが深夜まで灯をともして唯一生き長らえている。  ただ生きていくだけの街。  きっともう、そう長くはないであろう街。  そんな終わりを感じさせる不吉な空気が、縁条市にはいつだって漂っていた。 「はぁぁー……」 「どうした少年、朝っぱらから溜息か? 今日は不調らしいな」  しかしそんな廃墟街でも通勤ラッシュの時間帯だけはやはり例外、駅沿いのさびれ商店街だって市外や県外に向けて出ていく人々で埋め尽くされるのが常だ。  行き先を急ぐサラリーマンが電話に向かって喋りながら俺たちを追い越し、電車を降りたばかりの高校生は気怠そうに自転車を漕ぐ。商店街の先の方までびっしりと人の列、それを見やって俺はやっぱり来なければ良かったと後悔の嵐に見舞われる。 「先生のせいでしょうよ。ったく、これだから朝出歩くのはイヤなんだ」  必需品のウォークマンで洋物のギターインストなどを片耳聞きしながら歩く。これがなければ、延々と膨大な他人の声に聴覚を食い荒らされるハメになる。睡眠不足の身には厳しい。 「……? そういえばアユミがいないな」 「コンビニに急用だそうで。いつものやつじゃないですかね」 「ふーん」  平然と人混みを歩く先生の横顔は余裕たっぷりといった感じだ。恐らく慣れているのだろう。習慣って怖ろしいもんだな。  ──余談、通勤ラッシュのストレスは戦場前の緊張よりも苛烈であるらしい。詳しくは知らないが、戦場ならば対策も練れるが通勤ラッシュの流れは一切予測ができない、という辺りに理由があるとか何とか。俺からすればサラリーマンなんて勇者の称号だ。 「─────……。」  ん?  なんか先生がこっちを観察している。人形のような無表情で。  雑踏の波に押し流されながら、何故か無言で師匠と見つめ合う。 「……なんですか?」 「いや、別に何も」  変な空気が流れたと思ったら、今度はぷいっと目を反らされた。  あれだろうか。もしかして「恋しちゃってる」のだろうか、先生が俺に。だとしたらすごい迷惑だ。先生は美人なだけで、中身がアレだ。 「羽村──」  頭の中でふざけていると、名前を呼ばれる。「今度はなんです?」と顔を向けたところで、  先生の黒髪が翻る。  視界が揺れる。  顎の骨が砕けそうになる。  音は遅れて聞こえてきた。  突然の衝撃に頬を打たれて、俺は立ち止まっていた。 「……え?」  グーで殴られた。  いきなり。  平手でも何でもなく、鈍い音を立てて、俺は先生に顔を殴られた。 「………………」  雑踏の波の中で、俺と先生だけが立ち止まる。残響は長く響いた。眩しい朝の空、白く照らされた商店街の隅っこで。  何故か先生の鋭い双眸が、真っ直ぐに俺を見据えているのだった。あと幾つか奇異の視線も感じる。 「……えーと。すみません、これは一体、どういう意思表示ですか?」 「あ──」  やってしまった、と表情が渋いものに取って代わる。しかしそれも一瞬のことで、改めて口を開いた魔女はいつも通りの先生だった。 「うむ、お前の頬にハエが留まっていたので殴殺した次第だ。だから気にするな」  やたら虫に好かれる頬ですね。本当だったら汚ぇし。  つい、と何事もなかったようにまた歩き出す高校生。いやいやいや。ズキズキと痛む頬を押さえながら、ひとまず俺もその背中に続くのだが。  しばらく歩いてから。細い背中が諦めたように溜息を吐いた。 「──というのは冗談でだ。昨日のオマエの不甲斐なさを思い出したら急にそのマヌケ面が許せなくなった。それだけだ」 「昨日?」  俺が何か先生を怒らせるような真似しただろうか。  食事当番はキチンとこなしたし、家の掃除だってほとんど俺一人で済ませた昨日。むしろ褒められて然るべきじゃないか。それがなんで突然殴られる?  釈然としない気分でいると、先生が静かな顔でこちらを肩越しに見た。 「──“ひきずり魔”の件だよ。思い出せ、この軟弱者」 「む」  ゴゴゴ、と音を立ててフラッシュバックする強敵のシルエット。ああ……そういえばそんなこともあったかな。 「被害者と遭遇し、アユミを気絶させ、挙げ句に手を滑らせ最後は徒手空拳の泥仕合。華々しい喧嘩屋ぶりだったな少年。本当に、開いた口が塞がらなかった」 「むぅ」  そんなこと言われても、こっちは生き残るのに必死だったんだ。それにアユミが気絶したのは俺の責任じゃない。  先生は腕を組み、性格の悪い笑みを向けてくる。 「それで? 拳で語り合った結果、お前とバケモノの間に友情は芽生えたのか?」 「ええ、それはもう。最後には肩組んで一緒に朝陽見上げてましたよ」  険悪なコブラツイスト友情だったけど。しかも俺が極められる方。ギリギリギリ。 「…………。」  あの夜の結末はこうだ。  身体を折り畳まれる寸前で、俺がヤツの首に浅く刺さっていたボールペンを引き抜いて心臓に刺し直した。すると、ヤツは案外あっさり消失していった。  もともと限界まで摩耗していたのだ。見た目の迫力に反して、ヤツの存在自体はそれほど強固でもなかった。  黒い燐光となって消えていく都市伝説。  それをこの目で眺めているという状況は、なかなかに不思議な気分だった。 「にしても、怖っろしい相手でしたねぇ」  ──あの“ひきずり魔”の正体は、ある中年男性が発した“呪い”だったという。  名前を榎本洋一・四十二歳、職業はしがないサラリーマン。  彼は公園でたむろしていた暴走族の青年達に掴みかかり、逆上した青年達に大勢で囲まれ私刑を喰らわされ、鈍器や刃物で瀕死まで追い込まれた挙げ句バイクで引きずり回され死んだ。  一件は傷害致死ではなくちゃんと殺人事件として処理されたが、だからといって死んだ榎本氏が帰ってくるわけでもない。  バイクに引きずり回されアスファルトで顔を削られながら、榎本氏は青年達を強く憎んだだろう。  仕返ししてやる、仕返ししてやる、と。  その怨嗟は榎本氏本人が死亡した後も残留し、“呪い”となり、最後には“亡霊”としてこの世にカタチを成してしまった。  それが“ひきずり魔”と呼ばれたあの異様なバケモノの正体。  榎本氏の“呪い”は無差別に人間を襲い、足首を掴んで引きずり回し殺すという常軌を逸したモノになった。  それを昨夜俺が倒したわけなんだが、あの“呪い”の強烈さはいまもまだこの身に染みついている。  あれは憤怒だ。空気を浸蝕し肌を沸騰させるほどの強い憤り。  だが強すぎる“呪い”は被害者を選ばない。曖昧な方向性に曖昧な存在と、唯一確かな危険性。  ──苦痛  ──憎悪  ──絶望  ──渇望  それら人間の怨嗟は“呪い”となって具現化し、最後には無差別に人を喰らう“バケモノ”となる。  それを処断するのが俺達“狩人”の仕事なのだが── 「……確かに。我ながら、あんまりスマートとは言えませんね」  まだ頬骨が痺れている。  だが、一歩間違えれば今日生きてこんな痛みを感じることもなかったかも知れない。長年掛けて鍛え上げた弟子が初実戦で死にかける。先生が怒るのも、無理ないか……。 「犬は時速四十キロで地を駆ける」  静かな横顔を見ながらその言葉を聞く。 「だがな、訓練されたレースドッグはその二十キロ上、時速六十キロ前後の世界で速さを競うそうだ。それに引き替え、昨日のお前たちときたら可愛いダックスフンドだよ。あれじゃこの先は生き残れない」  商店街を抜けた所で、先生が少女のようにスカートを揺らして俺を振り返る。  交差点を背にして。  先生の表情はどこか哀れむようで、同時になぜか淋しげでもあった。 「──やっぱりお前とアユミには、せいぜい鼻をひくつかせて|道端お節介《ボランティ ア》でもしてるのがお似合いなのかもな。見送りご苦労」  信号が青に変わる。  流動を再開する人並みの中に一人取り残されて、俺はただ埋もれていく先生の背中を見ていることしか出来なかった。  我ながら不甲斐ない。不甲斐ないとは思うのだが―― 「──何も、殴ることはないでしょうに」  それだけ呟いて道を引き返し始める。さっさとアユミを回収しに行こう。  コンビニまでの道程、商店街の電気屋の前。並べられたテレビは揃って連続女児誘拐殺人のニュースを映し出していた。
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