#004 / 雨詩-Clear rain'-

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 その日の廃工場は、わたし・高瀬アユミと智花さんの二人だけだった。 「…………」  パイプ椅子に腰掛けて、三十分前には集合するはずだった信士さんと俊彦さんを待ち続けている。  智花さんは、さっきからただじっと工場の入り口だけを見つめている。 「…………」  変わらないはずの雨の風景は、昨日と違ってどこか色抜けている気がした。  砂埃の感触がザラついていて。  ぱたぱたと注ぐ雨さえどこか虚しくて。騒がしい時間がウソだったかのように、わたしも智花さんも黙り込んでいた。 「…………」  智花さんの横顔を盗み見る。  湿った瞳。いつだって元気だった智花さんが、どこか、諦めたような色を浮かべて沈黙していた。 「……やっぱり、来ない……か」 「え?」  静かすぎたからだろう。  溜息と共に吐かれた智花さんの声は、空っぽの工場内によく反響した。  ──宝物。みんなの宝物だったはずの場所に、いまは、誰も現れない。 「いいよ……分かってたんだよ、そんなの」  髪を撫でながら、智花さんはどこか投げ遣りに呟いた。 「はは、そうだよね……きっと昨日がどうかしてたんだ。そうに決まってる」  そのいまにも折れてしまうんじゃないかってくらいに弱々しい声が、わたしには不思議だった。  あんなに明るかった智花さんが――――いまにも、泣き出しそうな顔で笑っていた。 「ごめんねアユミちゃん。きっとあいつら、もう来ないよ。もともと来るはずなんてなかったんだ。この二ヶ月、何回連絡しても、私以外は誰もここに足を踏み入れようとしなかったから──」  まだ、智花さんは笑っている。  きっと泣かない。  この人は、わたしの前では絶対に泣かない。そんな気がした。 「……本当はね? 昨日会ったのが二ヶ月振りだったんだよ。だからそれまでみんなバラバラに過ごしてた。五人全員、あれ以来もうずっと会話もしてなかったんだ……」  そう言って。  智花さんは、無人のパイプ椅子をひとつひとつ見回して──最後に、感情の欠けた空っぽの瞳で天井を見上げた。  虚無。  つくりものの硝子細工のような表情で、彼女は語った。 「……もう宝物じゃない。終わってしまった思い出なんだ、きっと」  ざぁぁああああああああああああああああああああ  雨足が強くなった。  その時、わたしの脳裏に映像が浮かんだんだ。  何度連絡しても会おうとしないみんな。  仲良しだったはずの五人が散り散りの毎日を過ごして。  一人ぼっちになってしまった智花さん。  智花さんは明るくて前向きな人だから……だから、そんなでもきっと笑いながら毎日を過ごしていたんだろう。  淋しかったに違いない。  悲しかったに違いない。  世界の終わり。  みんながいたはずの日常。それが終わったあとの、何もない空っぽの日々。  それがあの日、わたしと──高瀬アユミと出会って、友達になって、楽しく話をして、それで彼女は少しだけ救われていたのかも知れない。少しだけ心から笑ってくれたのかも知れない。  それを切っ掛けに昨日、信士さんと俊彦さんがようやく会ってくれて、また一緒に笑い合って。   ああ、楽しそうだった智花さんの姿はよく覚えている。そして写真立てを見上げるたびに温度を失っていた三人の横顔も、よく覚えている。  ──きっと痛むんだ。  五人一緒だった日々を思い返して、余計に痛んでしまうんだ。  だからもう、彼らは会わない。  そうしてまた元通りの、散り散りの毎日が始まってしまった。 「…………」  分からない。  わたしはなんて言えばいいんだろう。  どうすれば、智花さんはいつもみたいに笑ってくれるんだろう。  ああ、とっておきのジョークは何だったろう。  そんなので笑わせられるかな?  そんなので智花さんを癒せるのかな?  泣き出しそうな横顔が見える。  一人ぼっちの瞳から目が離せない。  わたしには何も出来ないの?  泣かないで。  どうか泣かないで。  わたし、わたしは……! 「智花さんっ!」  がたんと音を立てて立ち上がっていた。  智花さんはびっくりしたようにわたしを見上げてから、小首を傾げ、笑顔で聞いてきた。 「どしたん、いきなりそんな大声出して。忘れ物でもしたのかい?」 「……っ」  ──作り物の、ボロボロの笑顔で。  それを真っ直ぐに見返せなくて、わたしは地面を見つめた。  でもダメだ。  逃げない。  顔を上げ、まっすぐに笑い返して、わたしはつまらないことを言ったのだ。  「晩ごはん、何食べたいかな? 今夜は智花さんの好きなものを一緒に作ろうよ」  かすかに、智花さんの瞳が震えた。 「…………」  静かに腰を上げ、わたしの目の前に立って、呟いた。 「……そう。そうなんだね」 「え?」  ふわ、と優しく抱き寄せられた。  よしよしとわたしの頭を撫でながら、智花さんの唇がとても穏やかに動く。  ──雨の中で。 「アユミちゃんは、私のそばにいてくれるんだね……ありがと」  ぎゅっと抱き締められる。  それはきっと、作り物じゃなかった。海のように悠然とした声だった。 「……ありがと」  私の両肩に手を置いて、笑う。  智花さんの本当の笑顔は、どこか儚くて、何かを受け入れている人だけが浮かべられる神聖さを纏っていた。  ああ、よかった── 「智花さん……」  ──やっと、笑ってくれた。  ようやく安心できた。  耳に痛かった雨の音も、優しくなってさらさらと流れ落ちていく。  ――穏やかになった智花さんの背中から、何故か、燃えるように真っ黒な呪いが滲んでいた。 「アユミちゃん、私ね。信じてるんだよ」  智花さんは外の雨に視線を移した。  それは夢。  彼女が雨の日に見た、小さなユメの一欠片。 「いつかまた、五人一緒に──ううん、今度はアユミちゃんも入れて六人。みんなでまた、ここに来て遊ぶんだ。たくさん、たくさん、いつまでも」  ささやかな。  慈しむべき、祈りのかけら。 「そっか……うん、そうだね。みんなで遊べるといいね」  だからわたしも、自然に頷いていた。  きっと安心しきっていたんだと思う。智花さんがあまりにも穏やかだったから。  また五人、ずっと一緒に。  叶うはずのない願いに、嬉しそうに頷く彼女。  そう、叶うはずがない。  叶うはずがない願望だ。  叶ってはいけない願望なのだ。  雨は、まだ、降り続けている。
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