#004 / 雨詩-Clear rain'-

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 雑音まじりのロックは嫌いじゃない。  それも味。雨の音さえ遠く聞こえて、踏み抜いた水溜まりの冷たさなんてどうでもよくなってしまう。  少し大きめの黒い傘、ぱたぱたと跳ねる水滴の感触はどこか小気味よくて、わたしと智花さんは先延ばしするようにゆっくりと家路を歩いた。  ──ぱしゃん、ぱしゃ。 「…………」  二人きりで、肩を並べて。  夜の皐月通りを抜けていく。  本日の一曲は「クリアレイン」。  抑揚をおさえたメロディーが湿ったギターの音と混ざり合って、乾いたスネアと弾け合う。  イヤホンの左右を智花さんと分け合って、わたしは彼女と同じ曲に想いを馳せる。  なんだか優しい曲調と、からっぽの匂いがする歌詞で。  それはどこか淋しげな歌だった……ような気がした。 「───」  空は黒。  降り続ける雨はただ無言で世界を染めている。  皐月通りを抜け、小鳥川の小枝を跨ぐ煤けた橋を渡って、自動車とすれ違い、ライトに照らされたと思ったらまた二人きり。 「…………」  智花さんの息づかいさえ聞こえてきそうな静けさで。  たまに触れる肩は温かくて、秋の雨だってちっともつらくはなかった。  ちらりと智花さんの横顔を窺ってみる。  少しだけ雨に濡れた頬。  髪が張りついて、瞳は平静のまま少しだけ湿っていて、唇は何を語るでもなくただ細い息を吐いていた。 「踏み外しちゃダメだよ」 「え──?」  不意にその唇が動いて、わたしの手を引いて立ち止まらせる。  ぼんやり顔を前に向けると、舗装の荒い地面に深い水溜まりが出来ていた。 「歩きながらぼーっとしないの。風邪引いたらどうすんのさ」  そう言った智花さんの笑顔は叱っているわけでも怒っているわけでもなく、ただわたしを包み込むように見守っていた。 「……ごめん」  控えめに笑い返すと、智花さんは笑顔のままでうんと頷いてくれた。 「ね、アユミちゃん。昨日のクイズ覚えてる?」  また二人で歩き出した途端、智花さんはそんなことを言ってきた。 「……クイズ?」  何のことだろう。よく覚えていない。 「もう。昨日話したじゃん、アユミちゃんが眠る少し前。私の好きな花のこと」 「う~ん……?」  聞いたような、忘れたような。 「二つも星を背負った、贅沢な花。別に何か特別ってわけでもないんだけどね。なんとなく、好きなんだ」  二つも星を、背負った?  そんな花あったかな。 「……わかんない」 「そっか──」  そこで智花さんがぴたりと立ち止まった。  わたしの一歩後ろで佇んで、雨に打たれながら、踵を返した。 「──ま、ゆっくり考えればいいよ。答え合わせは、また今度」  そのまま手を放して去って行ってしまう。  雨の中。  彼女の笑顔が、遠のいていく。 「……智花さん? どこ行くの?」 「ん? いや、さっき自販機あったでしょ。寒くなってきたからコーンポタージュでも買ってくるよ」 「それじゃわたしも一緒に……」 「いいっていいって。ほら、あこに閉まってる八百屋さんあるでしょ? あこで雨宿りしてて。すぐ戻るから」  目を放すのは不味い――けれど、わたしのバックアップには雪音さんがついてくれている。姿を見せないように尾行してくれているはずだ。なら問題ないだろう。  ここで無理に強く言って、怪しまれてしまうほうが不味い。  智花さんは手を振って、走りながら去っていく。それを黙って見送った。  スニーカーに踏まれて跳ねる水の音。  傘も差さずに、駆けていく背中。 「……もう」  ほんと、元気なお姉さんだな。  目の前の興味に真っ直ぐで。  わたしたちはきっと、智花さんの勝手気ままに振り回されてさえいればいいんだ。  初めて出会ったあの日のように。  大体、道端でずぶ濡れの女の子を拾って帰るような人なんだから。わたしはただ大人しくついていくしかない。 「………」  クリアレインを聞きながら。  一番はじめの日のように、また雨の道端で待ちぼうけすることになった。 +  俺・羽村リョウジはまた地蔵と睨めっこしていた。  昨夜と同じ立ち位置で。  傘を差し、木陰から児童公園を介して中林家の玄関を覗き見る。 『……そっちに行った。何をする気か知らないが、油断するなよ』  分かってますよ──という返答は呑み込んだ。  繋ぎっぱなしの携帯電話。通話相手は先生だ。俺たちは昨日とは違い、お互い綿密に連携し合って一人の高校生を監視していた。 「………」  中林家の塀の前を歩く眼鏡。  美濃信士の監視を、移動しながらもう何時間も続けていたのだ。 「……はぁ」  肩が痛い。さすがにかなり疲れてきたな。  朝も昼も夕方も、ヤツは別段変わった行動を取ったりはしなかった。ただ普通に商店街を歩いたり、家に帰ってしばらくしてからまた一人で出掛けたりと、ごく普通に学生の休日を過ごしていたのだ。  しかし案外インドアな男ではないようだった。思いつきのようにショッピングやらカフェやらを出入りする。行動的なのかも知れないが、尾行する側としては非常に迷惑だった。 「……」  ヤツがこちらの尾行に気付いている様子はない。もし気付いていたのなら、とっくに俺たちを撒こうと行動を起こしていただろう。しかしヤツは夜になった途端どこかに電話して、繋がらない電話を切って中林家を訪れた。大方、中林俊彦に連絡を取ろうとしていたんだろう。 「………」  しばし、美濃信士は玄関の前から二階を見上げる。たぶん中林俊彦の部屋を窺っているんだろう。しかし彼は昨夜俺たちの目の前で死んだ。  死体もこっちサイドで処理したし、彼の部屋は現在無人だ──当然、灯りも点いていない。 「───」  そんな様子を見やって、美濃信士は溜息を零して眼鏡の位置を正した。 「ん……?」  そのまま帰るのかと思いきや、ヤツはポケットから銀色に光る何かを取り出して握る。 「………合い鍵?」  それは何の変哲もない金属塊。  まぁ家族並みに親しい友人の間柄なら、合い鍵のひとつやふたつ持っててもおかしくはない── 「……?」  ───の、だろうか?  思わず首を傾げてしまう。  しばらく右手で鍵を弄んでから。  美濃信士は、門を開けて中林家の土地に一歩足を踏み入れる。  いや、待て。  鍵?  何の鍵だ一体?  あいつはこれから何をどうするつもりなんだ?  ……そんな疑問の答えはすぐに分かった。  中林家の塀に消えていく美濃信士の横顔。  その瞳が一瞬、身を隠している俺の方を真っ直ぐ直視した瞬間に。  そして、聞こえ始めた始動音は。 「まさか……野郎……!」  紛れもなく、エンジン(・・・・)が吠え猛る音だった。 『止めろ羽村! 奴は尾行に気付いてる!!』 「くそっ!」  傘を投げ捨てて走り出す。  しかし俺が児童公園を半分も横切らないうちに、門を蹴って勢いよく美濃信士が飛び出してきた。  ──ヤツは中林俊彦の原付きに乗っていた。  ああ、それなら仲間内で合い鍵くらい共有しててもおかしくないし、高校生ならそのくらいの免許を持ってたって何ら不思議はない。  雨にスリップするタイヤ、凛と張り詰めた高校生の瞳が今度こそ隠そうともせずに俺を見やり、すぐに進行方向へと向き直る。  だが。 「止まれ……」  すぐさま中林家の屋根を蹴って、日本刀を握った先生が飛び降りてきた。  黒いセーラー服が夜に舞う。  振り上げられた銀光を見上げても、美濃信士の鋭い眼光は一切曇らなかった。 「───」  ……あろうことか。  その高校生は、至極冷静に右腕を持ち上げ、人差し指を伸ばして先生に向けた。  音速で射出される爆破の呪い。 「な!?」  あまりにも冷静な対応に、驚愕の声を漏らすのは俺たちの方だった。  綺麗に爆破される中林俊彦の部屋の窓、降り注ぐガラス片に肌を切られて血を零す先生。その着地地点のすぐそば、空き缶やらペットボトルやらが大量に詰められていたゴミ袋もまた爆破される。先生はそのまま着地に失敗して、派手な音を立てて水溜まりに墜落してしまった。それを見届ける間も置かず、美濃信士はUターンして俺と先生の包囲網を突破していく。 「……あ」  エンジン音が遠のいていく。  逃げられてしまった。  完璧すぎる逃走だった。 「なんだよ……それ」  ──冗談じゃない、ふざけるな。  美濃信士はただの高校生のはずだ。なのになんだこの手強さは。大体、先生が傷を負わされた? 一般人相手に? なんだ、何だよそれ──!? 「ははは……そうか、お前か」  先生がゆらりと立ち上がる。  ずぶ濡れの、泥まみれで。 「間違いないあいつだ。あいつが昨日、オレたちの目の前で中林俊彦を撃ち殺し、跡形も残さず逃げおおせたあいつだ……」 「先生、傷は――」 「なあ少年、ヤケに疲れた気がしないか。不思議だな。どうしてあいつは今日一日、休んだり歩き回ったりを繰り返してたんだろうな」 「え……?」  夜空を見上げ、先生は力無く笑った。 「くそッ!」  俺は塀を殴りつけ、苛立ちを吐き捨てた。  ――――誘導された。振り回され、尾行が疲弊しきるのを待っていやがったんだ。  おかしい、昨日の中林俊彦もそうだ。  完全にこっち側を出し抜いていた。いや、そもそもの問題は──慎重に慎重を重ねたはずの、俺たちの尾行が素人に気付かれていたことだ。  どうなってる? まるで背後霊にでも告げ口されているようじゃないか。 「……」  その時、不意に俺の電話が鳴った。  通話を繋ぐなり、すぐさま先生が乱暴に奪い取って会話した。 「雪音か? ──ああ、特定したぞ。間違いない。下手人は美濃信士だ」  そう告げた先生の顔色が、電話の向こうの雪音さんの声を聞くなり歪められた。 「……は? 何言ってるんだよお前、そんなことあるはずが……」 +  私こと早坂雪音は全速力で駆けていた。  雨の商店街を。  脇目も振らずに、全速力で。 『雪音か? ──ああ、特定したぞ。間違いない。下手人は美濃信士だ』  繋いだばかりの電話はそんな戯れ言を言ってきた。  まったくふざけている。  そんなことあるはずがない。 「このバカ魔女! あんたまた騙されたの!? いいかげんにしなさいよ!!」  雨に濡れて、スカートが脚にまとわり付いてくるのも苛立たしかった。  まずい。  このままでは本当に逃げ切られてしまう。自慢の俊足が名折れだ。 「こっちはね、道端でいきなり襲われたのよ! 藍と碧もちゃんと見てた! あれは件の呪いよ! 分かる!? いまあたしの追いかけてる方が真犯人なの!!」  ──もっとも、フードを深く被っていたせいで顔は分からなかったけれど。  だけど絶対に逃がしはしない。  がっしと力ずくで捕まえて、必ずその顔暴いてやるんだから! 「待ちなさい、そこの高校生!」 + 「先生……これは、一体……」  呆然と呟くと、先生は目を覆い、苦々しく吐き出した。 「……攪乱されてる。しかも何故かこっちの行動が筒抜けだ。これじゃどうやっても勝てやしない」  そう言って魔女は小笹を収め、歩き始めた。 「せ、先生!? どこ行くんですか!」  最後に一度だけ振り返り、先生が、厳しい表情で俺を見返した。 「このままじゃ結末は最悪だ、だから別行動で駒を増やす。オレは美濃信士を追いかけるから、お前はいますぐアユミのもとに走れ。以上」 +  とくん、とくん。 「……っ」  胸が鳴る。  わたし・高瀬アユミはきっと怯えていた。 「……なんで」  とくん、とくん。  恐い。  いやだ、認めたくない。  だって、だって。 「なんで……何してるの、智花さん」  夜の空を見上げて一人、心細く呟いた。  もう何度同じ曲を聞いただろう。  どれだけ雨の音を聞いていただろう。  ──智花さんが、戻ってこない。 「……違う……そうだよ、きっと遠くの自販機に行っただけ」  何もない。  何も起こってないはずだ。  だって──そうだ、わたしのサポートには雪音さんがついていたはずじゃないか。もし何かの理由でわたしが智花さんのもとを離れることになったとしても、代わりにどこかから雪音さんが智花さんを見ててくれるはずなんだから。  とくん、とくん。 「っ!?」  その時、突然わたしの電話が鳴って、びくりと全身が震えた。  表示された名前は羽村くん。  その文字を見て眩暈を覚えた。倒れそうになってしまった。  とくん、とくん。  恐る恐る通話を繋いで、電話の向こうの声を聞いた。 「も……もしもし……羽村く、ん?」 『アユミ! いまどこにいるんだ!? 桂智花も一緒だよな!!?』 「え? ……その、わたしはいま一緒じゃないけど、でも、でも雪音さんがいるはずで、それに智花さんもそんな遠くに行ってないはずだし……」 『…………』  とくん、とくん。  なんで?  なんで黙り込むの?  ねぇ、何か言ってよ羽村くん。  恐いよ、不安なんだよ。  さっきからずっと最後に見た智花さんがちらついて離れないんだよ。 『……いいか、落ち着いて聞けよ。ついさっき美濃信士が俺たちの尾行を撒いていった。先生はあいつが中林俊彦を殺した犯人だって言ってた。そして、あいつが次に狙うのは桂智花だ。だから──』  とくん、とくん。  何、言ってるんだろう。  意味、分からないな。  トシさんがどうしたって?  殺された?  なに?  知らない、わたし聞かされてないよそんなの。  ――けれど冷静な部分では理解する。聞いてしまっていたら、わたしは智花さんの前で平静でいられただろうか?  智花さんの家でギターを弾いて聞かせてくれた、ことあるごとにパンパンに詰まったポリ袋を持ってきてくれるあのトシさんが、殺された?  殺したのは信士さん?  あの、眼鏡を掛けていて、とっても大人っぽい物腰で、いつも落ち着き払っている信士さんが──真犯人?  信士さんが流星さんもトシさんも殺して、次は智花さんを狙っている?  ウソだ……そんなの、いやだ。 「で、でも。そう、そうだよ……智花さんは雪音さんが守ってくれる……信士さんのことだって止めてくれる。そうだよね、だいじょうぶ、なんだよ……ね? ね? 羽村く──」  ──その時。  雨の音が、急に聞こえなくなった。  羽村くんの声も聞こえない。  とくん、とくん。  ただ黙って背後を振り返る。 「……あゆみ」  そこには双子の亡霊が立っていた。  雪音さんの補佐、情報担当の日々野藍と日々野碧。  雨の中で。  藍の眼の少女が、無表情で、囁いた。 「……急げ」  ああ──  そんな。  そんなのないよ。  何?  どうなってるの?  分からない。分からないままで、ただ、全速力で駆け出した。  気が付けば傘はなかった。  降り注ぐ雨に濡れながら、無音の街をひた走る。  走る、走る、転びそうになりながら無我夢中で走り続ける。 「智花さん、智花さん……っ!」  さっきまで隣にいたはずの横顔。  どうしてはなしたりしたんだろう。  どうしてわたしは、こんなにもバカで救いようがないのだろう。 「やだ……やだよ、そんなのいやだよ……いや……!」  もうとっくに全身がびしょ濡れで。  雨なのか涙なのかも分からない。  とくん、とくん、とくん、とくん。  走って走って走り続けた。  息を切らす。  脚が痛い。  いつの間にか立ち止まっている。  目的地なんて分からなかったはずなのに、わたしは自然にあの廃工場の前に立っていた。  人の気配。  そして、何かが──そう、まるでリンゴが砕けるような音が、廃工場の中から聞こえてきたんだ。 「あああああああああああああああああっっ!!」  倒れそうになりながら駆け込む。  そして、 「ぁ……っ」  そして、そこにあったアカイロを見た瞬間に、わたしの中で何かが終わった。  たぶん何秒か意識が飛んでたと思う。  廃工場。  砂埃の匂いがする、思い出の場所。無人のパイプ椅子たちの真ん中で。  真っ直ぐに伸ばされた人差し指と、その先で死んでいる、顔のないダレカの死体。首がない。バラバラに飛び散ってしまったらしい。どうしようもなく無惨で、どうしようもなく怖ろしい死に様。  だけど、その死体に残された部分だけは、見覚えがあったんだ。 「……あ、ぁ」  知っている。  その手も、その腕も、その肩も脚も体型もよく覚えている。 「なん……で?」  ああ、雨の音がうるさいな。  とても耳障りで吐き出しそうだ。 「……どうし、て」  眼に染みる赤色が痛くて泣きそうだ。  ただよろよろと歩み寄って、血に濡れた服を掴みながらわたしは叫んだ。 「どうして、こんなこと……したんです、か」  見上げても答えはない。  何も言わない殺人鬼に、わたしは心底絶望した。 「答えて……ねぇ、答えて、よ……っ!」  ただ必死で、その人に、詰問を投げ付けたんだ。 「答えてってば……………………ねぇ、智花さん(・・・・)ッ!!」  ──わたしの目の前には。  首のない信士さんの死体と、返り血を浴びた智花さんが、立っていた。
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