#004 / 雨詩-Clear rain'-

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「ダメだよアユミちゃん。雨の日は、ちゃんと傘差さないと」  そう言って、智花さんは初めての日と何も変わらない笑顔を浮かべた。  にっこりと。  無邪気な笑顔を、わたしに向けた。 「……智花さ……ん」  だけど、その頬は血に濡れている。  さっきまで綺麗だった服も血だらけで、まっしろだった手もいまは真っ赤だ。智花さんのすべてが、あの日のままに、信士さんの血で汚れていた。 「あら……あっちゃー、冷めちゃってるよこれ」  血だらけの手がポケットから何かを取り出す。  カコン。  コーンポタージュの蓋が開けられて、智花さんの白い喉が、休憩するようにごくごくごくとそれを嚥下した。 「……う……うああああああっ!」  そんな智花さんの平静さが怖ろしくて、わたしは声を上げながら尻餅をついた。  ぬるぬるとした血の感触。おぞましい。これだけでわたしは吐き出しそうだっていうのに……。  なんで?  なんでそんなに冷静なの?  死んじゃったんだよ?  あの信士さんが、死んじゃったんだよ?  他でもない智花さんが殺したんだ。  なのに、どうして?  なんでそんな冷静でいられるの? 「アユミちゃん……?」 「っ!?」  心配そうに覗きこんできた殺人鬼。その気遣う瞳さえ怖ろしくて、わたしは思わず身を引いてしまった。  それで沈黙。  廃工場に、いやな空気が堆積していく。  窓の外の雨を見ながら、智花さんは傷付いた瞳で呟いた。 「そっか……私のこと嫌いになっちゃったか」  あくまでも、顔だけは笑顔のままで。  すぐそばにある信士さんの死体をまるでここにはないみたいに無視して、ただいつもの智花さんを続ける。 「──理由はね。とっても難しい話なんだ。だから、たぶん話しても理解してもらえないと思う」  でも、と言って智花さんは続けた。  遠慮がちな視線でわたしを見下ろしながら。どこまでも、幸せそうに。 「これだけは覚えといてほしいんだ。私はアユミちゃんのことが好きだよ。隣にいられるだけで嬉しかった。アユミちゃんの笑顔が大好きだった。それだけはたとえ私が人殺しになっても変わらないから……」  そう言って、わたしに伸ばしかけた血だらけの手を、淋しそうに引っ込めた。  智花さん。  そうだ、この人は智花さんなんだ。  わたしの友達の桂智花さんであることに変わりはないんだ。 「……智花さん、が……みん、な……を?」  わたしが問い掛けると、智花さんは首を横に振って。 「ごめんねアユミちゃん。次、私の番(・・・)だからさ」  廃工場の真ん中で、智花さんは最期にまた、笑った。  ぼ ん  ッ 「ぇ……」  その瞬間に、智花さんの顔が砕け散って。  まるで生きているみたいにゆったりと倒れる。  首がないのに。  一瞬で頭部を失って、死んでしまったのに。  びちゃりと倒れた智花さんは、まるで意志があるように信士さんの隣で眠りに就いた。 「……え? え?」  顔を濡らす暖かい感触。  流れ落ちていく血の感触。  地面を広がって手に触れた血の感触。  唇を濡らす血の感触。 「あ……」  死んだ?  智花さんが、死んでしまった。 「ああ、ああああああああああああああああああああああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!!!!??」  わたしはわけもわからず智花さんを掻き集めた。  地面で爪を削るように掻き集めた。  智花さん。  優しい優しい智花さんを掻き集めた。  ──けれど、そんなことしたって何の意味もない。もう二度と、智花さんは笑ってくれないんだ。  あの笑顔も。  あの声も、大好きだよって言ってくれた言葉も。  聞けない。会えない。  何もかもが残酷に砕け散ってしまった。 「うぅ、ううう──っ!」  唇を噛み締める。  ぽたぽたと地に墜ちて、彼女の温度と混ざっていく悲しみ。  わけがわからなかった。  だから呆然とした頭で、その人の声を聞いた。 「俺たち五人はいつも一緒だった」  かつ、かつと反響する足音。  背の低い、金髪の、だけどとても穏やかな瞳の高校生。  どこか猿を連想させる身軽そうな姿。  そうだ、写真で見て知っていた。 「吉田……流星、さん」  ぼんやりと呟いた。  わたしの目の前には、穏やかな微笑を浮かべて、この事件の一人目の被害者――死んだはずの吉田流星さんが立っていた。  彼は静かに語る。まるで枕元で絵本でも読み聞かせているように。 「……だからね、誰が思いついて、誰と相談して決めたわけでもないんだよ。気が付けばそれは始まっていた。たぶん儀式みたいなものだったんだと思う。こればかりは、一人でも抜け駆けしたら成立しない」 「何を……言っ、て」 「何って、キミが聞きたがってた話だよ? 高瀬アユミさん」  そのおどけるような微笑にも、わたしは何も感じない。  ただ泣いて、哀しんでいた。  肩を震わせ、歯の根も噛み合わず、ただ智花さんの死を、いつまでも。 「そう二ヶ月前の智花もそんな感じだったね。亜由美が死んだ時の智花……」  そう言って、彼は優しくわたしの頭を撫でてくれた。  泣かなくていいよ、と。 「答えを教えてあげるよ。俺、吉田流星を殺したのはトシ。トシを殺したのは信士。信士を殺したのは智花。そして智花を殺したのは――――──俺なんだ」  ……それはひとつの円環だった。 「誰が思いついて、誰と相談して決めたわけでもなく。それは気が付けば始まっていたんだ。まるで、仲間内の儀式のように、ごく自然に。」  その、吉田流星さんの亡霊の背中から呪いが滲んでいた。みんなと――他の三人と同じように。  真犯人なんて始めから存在しない。  円環(リレー)殺人。  彼らは、五人でひとつの輪を描いていたんだ。 「どうして……そんな、こと」 「さぁ、何でだろうね? 言われてみれば確かに回りくどいや。いっそ四人で一斉に心中してもよかったんじゃないかな。無意識に意思を確認し合ってたのか――あるいは、もしかすると俺たちは──」  流星さんは、誰よりも無邪気に笑って。 「──誰かに、止めて欲しかったのかもね」  誰よりも残酷に、わたしの罪を夜に晒した。 「……智花さ……ん」  そうか──わたしだ。  きっとわたしが止めなければいけなかったんだ。  そのために出会ったのかも知れない。  そのために智花さんは、あの日、わたしに声を掛けたのかも知れない。 「……」  だとしたらわたしは──わたしは、最低だ。何の役にも立たず、死のリレーから智花さんを助け出すことも出来なかった。  そんなわたしの考えを、智花さんなら明るく笑って否定してくれるのだろう。  違うよ、そんなんじゃないよ──と。  だけど智花さんは何も言わない。笑うことも出来ない。これが、この喪失が死んでしまうっていうことだ。 「……助けに行くんだ。」  流星さんの瞳が、わたしを真っ直ぐに見下ろした。 「みんなで一緒に、一人きりになってしまった亜由美を助けに行くんだ。そしたらまた五人一緒に遊べる。そしたらまたあの日々が帰ってくる」  かみさまみたいな神聖さを纏って。  死刑囚みたいな空虚さを宿して。  けれどあくまでも微笑しながら、流星さんはわたしに右手を差し出した。 「一緒にいこう。キミなら歓迎するよ、高瀬アユミさん」  とくん──。  差し述べられた希望の手。  会える?  また、智花さんと一緒に笑い合えるの? 「ああ、きっと。それに信士もトシも俺も、もう一人の仲間もいるよ。きっと楽しい。ぜったい一人きりになんてしない。困った時は助け合おうよ。それが、仲間っていうものだから」  そうなんだ。  ああ、いまならわたしにも分かるよ。  それはきっととても暖かくて。  わたしのすべてを救い出してくれる素敵なものだ。  信士さんに、俊彦さんに、亜由美さんに、流星さんに智花さん。  こんなにも素敵な友達に囲まれて。  わたしは永遠に幸福なままでいられるんだ。  ――自分の罪から目を逸らすように、わたしの心は収縮していく。  哀しいことなんて何もない。  つらいことなんて何もない。  ずっと、一緒に。  肩を並べて、歩いていこう。 「……流星、さん」 「うん。おいで、アユミちゃん」  わたしの右手が、震えながら、流星さんの希望の手に伸びていく。  わたしはきっと笑顔だったろう。  だってわたしはこんなにも幸せだ。こんなにも満たされていて、会えなくなった智花さんにまた会うことが出来るんだから。  ……熱病に冒された視界が、真っ黒で形成された智花さんたちの影がわたしに手を伸ばさせる。  これは本当にわたしの意志?  これは本当にわたしの思考?  ──そうだよ。思い悩むことなんて何もないよ。  本当に?  本当にそうなの?  ──そうだよ。さ、早くさよならをしてみんなのもとに行こう。  そっか、それじゃ。  ──うん。  ……………………さよなら。  希望の手に指先が触れる―──そして。 「………………え」  そして、わたしの指が流星さんの手から引き剥がされた。 「────」  静かに、音もなく。  わたしの目の前には、びしょ濡れの黒い背中が立ち塞がっていた。 「……羽村くん?」 「…………」  彼は、一言も発さずに、ただ苦しそうに流星さんを睨みつけていた。  それを見て、流星さんは観念したように笑った。 「──そっか。先約があったんだね、すまない。それじゃさよならだ、アユミちゃん」  そう言って彼は陽気に手を振り、燐光を散らして消えていった。  きっとみんなのもとへ行ったのだろう。  わたしだけを、ここに残して。 「…………」  取り残されてしまった。  羽村くんは何も言わない。ただ一言も発さずに、わたしに背中を向けたままだった。  廃工場は赤色。  それをぼうっと眺めていると吐き気が催してきた。 「う──」  知っている、この色。  部屋。  バチバチと赤色の部屋がフラッシュバックする。  閉じ込めていた記憶が溢れて、わたしにすべてを吐き出させようとする。  赤い赤い子供部屋、黒い黒い誰かの姿。  鬼だ。  こわいおにがわたしをころすゆめ。 「………?」  その時、不意に智花さんの声を聞いたような気がした。  不思議に思いながら顔を向けると。  ──花は好きかい? 私は好きだ。  窓の外の静かな雨。  ──星は好きかい? 私は好きだ。  みんなが何度も顔を向けていた方向。  その雨の向こう、廃工場群に埋もれるようにして咲いていた花をわたしはようやく見付けた。  ──二つも惑星(ほし)の名前を背負った、贅沢な名前の花なんだ。  ああ、智花さん。  やっと見付けたよ、クイズの答え。  答え合わせしなくても分かったよ。  ひとりでちゃんと見付けられたよ。  だから、ね、智花さん。ほめてほしいな。よく分かったね、って笑ってほしいな。肩を並べて、また、一緒に雨の中を歩いていきたかったな……。  ──少し遅れた切ない香り。そいつの名前はキンモクセイ。  空の涙が止むことはなく。  付けっぱなしだったイヤホンが、ただいつまでも『クリアレイン』を歌い続けていた。
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