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事件が終わった後も、アユミはいつも通りの高瀬アユミだった。
「ねぇ羽村くん、外食行こうよ! 今日は先生出掛けてるんだって!」
「あ……」
ぱさ、と音を立てて、読んでいた雑誌が顔に落ちた。
「羽村くん?」
不思議そうに名前を呼ばれて、仕方なく気怠い体をベッドから起こした。
「別にいいんだけどな……どこの店行くんだ? あてはあるのか?」
「いいえ全然、ノープランだよ。それを二人で探すのが楽しいんじゃない」
「そうかい」
言われるがままに、夕暮れの街に繰り出した。
縁条市、日が落ちる直前の錆色の街。
途中で車とすれ違う。気の早いハイビームが目に眩しかった。
長い坂道を下って、商店街の雑踏に潜り込み、ご機嫌な笑みで前を行くアユミの背中をぼうっと眺めた。
「………」
よそ行きの服に、白いうなじと、いまにも折れそうな華奢な肩。
変わらない。
不思議なくらいにいつも通りのアユミの背中。それを眺めて、何の気なしに、俺は溜息を吐いていた。
「あれ? どうかした?」
「いや、別に。ヤケに楽しそうだと思ってな」
「そりゃ楽しいよ、外食だよ外食。ね、何食べよっか? 回転寿司とか、あるいは回転しない寿司とか?」
キラキラと星が舞う瞳を向けてくる。
いつもの俺なら面倒くさいと投げる場面だろう。だが。
「──ああ、いいんじゃないか。そういえば駅前の寿司屋ってまだ生き残ってたっけ? 行ってみよう」
俺はアユミを追い越して、雑踏の中を船をこぐように歩き始める。
いいさ、今日くらいは合わせよう。
なんだって奢ってやる。
楽しい思いさせてやるよ。だから──さ。
「……アユミ」
「え? なになに?」
──そんな無理して笑うなよ。
ああ、知ってるさ。お前はそんなに強いヤツじゃない。賢いくせに、甘くて、脆くて、どうしようもなく自分に不器用なのが俺の相方の高瀬アユミなんだ。
そんなヤツが、こんなに早く立ち直れるわけないじゃないか。
ひとりになった途端あの事件を思い返して、声を殺して泣くのだろう。
そうさ。心が通じ合った友人が死ぬってのは、そういうことだ。
その繋がりは何よりも強い。
この世の何にだって立ち向かえるだろう。
だからこそ、一人いなくなった途端にすべてが道連れになってしまった。絆が強すぎて、その想いが悪い方に働いてしまった。あれはそういう事件だったんだ。
「……いや、なんでもない。さて何食べるかな。トロって美味いのか? 食べたことないんだけど」
「え、本当? じゃあトロ食べよう、松前醤油を使ったお寿司屋さんを探そう!」
「醤油? なんでそこで醤油なんだよ」
「醤油で変わるんですよ、香りがね? 全然違うんですよ」
人通りの多い商店街を、はぐれてしまわないよう、離れないように歩き続ける。
結んだ赤い髪を見ながら思い返した。
──あの時、吉田流星がアユミを引き込もうとした時。
恐かった。
アユミの幸福に包まれた笑顔が恐ろしかった。
ああ、きっと遠くに連れて行かれてしまうんだ。
そう考えた瞬間に悪寒に襲われて、目の前が真っ暗になって、無我夢中で吉田流星を引き剥がしていた。
そうだ、俺はきっとあの時。
アユミの自由も意志も無視して、ただ自分の日常を守ってしまったんだと思う。
だが。
「……謝らないぞ」
「え? 何が?」
「………」
俺が何も言えずにいると、アユミはまたなんでもないお喋りを再開した。
アユミが何か言って、俺が何かを言い返して、楽しそうに笑う横顔に安心する。
ふと自分の胸に手を当てると──トクン。氷の鼓動が鳴っていた。
「ねぇ羽村くん」
「なんだ?」
「友達って、なんだと思う?」
静かな横顔が、穏やかな瞳が問うてきた。どこか真剣な問いかけだったような気がした。
「そうだな……」
改めて考えてみる。友達なんていたっけか? という自問は横に置いておいて。
どこかで聞いた話を、そのまま口に出すことにした。
「人生の財産とか、人生の宝とかそんなのなんだろうな。トモダチってやつは。」
「ほう? 人生ですか」
「ああ、人生だ。人間は、海を渡る小舟なんだよ。そしてどこにもたどり着けない。いつか、何の目的も果たせないままでズブズブ沈んでいく悲しい舟なんだ」
「あはは、なにそれ。ひどい例えだね。人生に意味なんてないって?」
「ねぇよ。あるわけねぇだろそんなもん。ほとんどの人間が、偉人になることもなく、歴史に名を残すこともなく、ありふれた憧れのように金持ちになることも成功者になることもない。有名人になったって、一瞬で忘れ去られる。生きてる内に歴史は変わらない。世界を滅ぼせないし救えない。人間は結局どこにもたどり着かないんだよ」
そう、大差はないのだ。
見ず知らずの小舟が、五千キロ進んで沈んだか、五千と一キロ進んで沈んだかを他人は理解できない。
「――が、海を渡る小舟だって、一人で乗るのと誰かと乗るのでは大違いだろ? あるいは自分と似た小舟そのものに出会うかも知れない。いずれ沈みゆく小舟なんだが、『相手』がいれば、鮫に襲われたことも、舟底に穴が空いたことも、笑って話し合える。力を貸し合って乗り越えられる。まるで鏡のように相手を見て、何かを考える。結局どこにも辿りつかないとしても、その途中を、過程の一部を共有することで、何かが救われた気分になれる」
「……それで、救われるの? 最後まで意味がなくても?」
「不思議と救われるんだよ。そういう風に出来てる。」
自分の良いところも悪いところも、気の知れた人間と話すことができれば――それだけで、なぜか許された気になれる。
たとえそれが、一時の勘違いだと自覚していたとしても、だ。
『騙されたことにしておくか』なんて、納得することが出来てしまうのだ。
「――故に、長い時間を一緒に過ごせる友人は、人生の財産になる――んだそうだ。」
「分かった。先生の受け売りでしょう?」
「いいや、雪音さんの受け売りだ」
神主代理の説法なのである。
そんなトモダチを大事にしましょう的考え、俺の持論なはずがない。
だが、先の事件を思い返せば、個人的に思うところもある。
「でもさ、友人ってのは助け合うべきものだ。それだけは俺にもわかる。どんなに繋がりが強くたって、一緒に破滅するためにトモダチやってるんじゃない。それだけは確かだ」
「……うん」
「一緒に沈むのがトモダチなんじゃない。当たり前のように一緒に沈まないのが、トモダチってやつなんだと思う」
「当たり前のように……?」
「簡単だ。誰かが沈みそうになっても、それをフンフンって聞いてやりながら、それとは別に自分自身は平気な顔していつもどおり進むのさ。ただ正常に生きてればいい。そうすることで、沈みそうになったやつの帰るべき手本になるんだよ。トモダチってやつが自分を映す鏡なのなら――――正常だった時の自分がどうだったか。それを無意識で教え合う、価値観の定規みたいなものなんだろ」
「………」
アユミの瞳に、雨の風景が映った気がした。
青く澄んだ、廃工場の残照。
何かを手放すように、その瞳を一度、深く閉じた。
――そう、小舟だ。
そして俺という小舟は、身勝手にもアユミを手放さなかった。
桂智花や吉田流星が沈みながらアユミを引き入れようとしても、子供のように譲らなかった。それを後悔はしていない。俺の方が正常だったはずだから。
「ところでアユミ。財布を忘れたことに気付いたんだが」
「えぇっ!?」
やらかした。
今日くらいは奢ってやろうと考えていたのだが、格好がつかない。
「もう、仕方ないな羽村くんは。いいよ、今日くらいは奢ってあげます」
すいません、こんな情けない男で。
「いいよいいよ。わたしはただ、一緒に外食できればそれだけで楽しいから。持ちつ持たれつな方向性で」
眩しい笑顔に、苦笑いを返す。
人の流れはいたって緩やか。
高い建物に挟まれた寒空を見上げながら。
「……そうだな」
持つべきものは、友だよな。
そんなことを呟く秋の夜、もう一息とまたず夜色に塗り潰される夕焼けと群青のパレット。
雨は、ようやく上がったらしい。
-Clear rain-
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