はだかのあたしと彼のキス

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 がむしゃらに仕事していれば、余計なことを考えなくて済む。あたしは雑務でも何でも、できることはすべて引き受けた。最初のうちは心配していた彼からの連絡も途絶えがちになり、ダメ押しのように本も失くして、あたしは目の下の隈を厚塗りのメイクで誤魔化して出社を続けた。  コーヒーでも買おうと休憩スペースの自販機に立ち寄ると、そこに竹中くんがいた。飲み会の件で別の幹事から謝罪があったが、そのときに、本人も謝罪したいと言っているが今は合わせる顔がないと聞いた。あたしは待っていますとだけ伝えていた。  がこん、と落下する音がして、竹中くんが自販機から買ったものを取り出した。そのままあたしに差し出す。あたしがいつも飲んでいるシリーズのブラック缶コーヒー。 「あげる」 「え、でも」 「謝罪がまだだったし。これくらいじゃ、何のお詫びにもならないけど」  竹中くんは小銭を足して、自分の分のコーヒーを買った。同じシリーズのカフェオレ。彼は甘党らしい。 「……ありがとう。ちょうど、これを買いに来たの」 「松井ちゃん、いつもそれだよね」  思ったよりも普通に会話ができてほっとしたのもつかの間、竹中くんはあたしが触れてほしくないことを口にした。 「松井ちゃん、アイツと付き合ってるの?」  せいぜい虚勢を張ったつもりだろうが、竹中くんの目が泳いでいる。あたしは黙っていた。同期の間では、それが周知の事実になっていることが、いまさら身にしみた。 「アイツだけは、やめといたほうがいいよ」  捨て鉢になったらしく、竹中くんはつぶやいて、缶の中身を飲み干した。 「どうして?」 「彼女がね、いるんだよ。学生のころから付き合ってて、結婚も考えてるみたい」  自分でも驚くくらい、平然としていた。動揺するそぶりすら、みせなかった。竹中くんからこのことを聞かされる前に、現場を自分の目で見ていて、よかった。竹中くんに、あたしが泣くところを見られてしまうところだった。とっくに涙は枯れ果てていた。 「そもそも、抱いた女の数で大きな顔してる連中には、反吐がでる。松井ちゃんは知らないだろうけど、飲み会のウラで、営業部の派手なやつらはだれがいちばんに女を連れて抜け出せるかって、楽しんでた。ゲームかよって。……おれはずっと腹が立ってた。おれたちが地道に努力しても、愛想と要領のよさで上手く立ち回ってるようなやつらに、どうして敵わないのか」 「彼は、なんの努力もしていないわけじゃないよ」  あたしは知っている。本棚を埋め尽くす仕事関係の蔵書、本に書き込まれた勉強の痕跡、休日に取引先から緊急の連絡があっても、面倒がらずに誠実に対応していること。 「……ごめん。今のは八つ当たり。聞かなかったことにして」  空になった缶を捨てて、竹中くんは天井を仰いだ。そのまま出入り口へと向かう。 「あーあ。おれ、松井ちゃんにはかっこ悪いとこばっかり見せてるな。飲み会のときも、あんなつもりじゃなかったのに。ばかみたいだ」 「そういえば余興で、あたしに何をしてほしかったの? 当たりしかない籤を引かせて」 「え」  今にも消え入りそうだった竹中くんがUターンして戻ってくる。 「……わかってて、嫌がったんじゃないの? 拒否られるし、谷口と一緒に消えちゃうし、おれもうバレてて遠回しに振られたんじゃないかと」 「へ?」  今度はあたしが目を白黒させる番だった。竹中くんは何度も頭を掻いて、たぶん出社前に整えてきた髪型は、見る影もなくぼさぼさだ。 「……あれは、その、サプライズ的な。アイツが松井ちゃんに目ェつけてたのわかってたし。余興って名目があれば、松井ちゃんに近づけるし、おれ、あの飲み会で告白しようと思ってて」 「でもあたし黒子が」と反射的に口走る。 「知ってます耳の裏に黒子あるよねそれもたまらんです」  早口で言い切ったあと、顔を真っ赤にしている竹中くんは、不器用で、かわいいなと思った。  思わず笑った。黒子をだしにして、好きだと言われるのがあんなに嫌だったはずなのに、今はこうして素直に受け止めることができる。それは彼があたしのはだかを愛してくれたおかげだった。彼があたしにかけた魔法のおかげだった。  竹中くんが気づいてくれた、耳の裏の黒子にそっと手をやる。あたしには見えない場所。キスをされた記憶もない。つまり、あたしも彼も知らなかったあたしの黒子を、竹中くんだけが知っていた。 「……あたし、大勢の前でとかそういうのはちょっと」 「は、はい、善処します!」  威勢よく返事する竹中くんが右も左もわからないくらい混乱しているのを微笑ましく見つめて、あたしはスマホを取り出した。新しい連絡先がひとつ、増えた。
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