21人が本棚に入れています
本棚に追加
竹中くんに本のことを相談したら、総務部の同期に聞いてみると言って、そして本は手元に戻ってきた。まさか会社で落としていたとは思ってもみなかった。改めてお礼のメッセージを送ると、竹中くんはまるで知ったような口ぶりで言う。なんかわかるよ、松井ちゃんってそういうやさしい話が好きそう。この本知ってるの? と返すと、竹中くんは驚いたようだった。名作じゃん。知らずに買ったの? あたしは素直に知らなかったと答えた。竹中くんは気障ったらしく、愛についての話だよと言った。
あたしは少しずつ、本を読み進めた。読んでいると寝てしまう夜もあったけれど、一文一文を大事に、大事に読んだ。読みながら、竹中くんが名作だと言った意味が、だんだんとわかってきた。その本には、きらりと光る言葉の数々があった。本を読むのに、難しい単語なんていらなかった。それはあたしにとって大きな発見だった。冷やかし半分で竹中くんがときおり奢ってくれるコーヒーを片手に、あたしはページをめくった。
そしてとうとう、あたしはその本を読み終えた。たしかに、それは愛の話だった。たったひとつの小さな愛を知り、見える世界が変わる、そんな話だった。
まだ宵の口とはいえ、カーテンの外は暗い。あたしは彼とのメッセージの履歴を眺めた。彼が送ってよこした「承知した」のスタンプが最新の表示になったまま、音沙汰はない。メッセージにしようか、それとも電話にしようか……あたしは少し考えて、クローゼットに向かった。一度穿いたきりで仕舞われていたあのロングスカートを取り出した。サテンの生地にレースを重ねた、壊れ物のようにうつくしいスカート。
それから徐ろに裁ち鋏を手に取って。裾からちょうど半分くらいの位置に刃を当てて。躊躇ってはいけない。えいっと、ひと息に。
裁ったあとの生地は端からほつれていく。けれど裾の始末をするのももどかしく、そのまま足を通せば、スカートは膝丈でふわりと揺れた。あたしの素足に散った黒子があらわになる。
女ひとりの夜道は何時だろうと危険だ。スカートならなおさら。それでもあたしは覚悟を決めた。ミュールは捨ててしまったし、彼がくれたスリッパはとってあるけれど、今は履くわけにいかない。しぜんと裸足で家を出た。抵抗はなかった。小石を踏んで足の裏に引っ掻き傷ができる。その痛みも何もかも、すべてあたしのものだった。あたしはあたしの足で、歩かなければならないのだ。
夜道には人っ子ひとり見当たらない。たまに車が脇をすり抜けていくけれど、中からじゃあたしが裸足で歩いていることも、素人が裁ったみっともないスカートを穿いていることも、きっとわからない。
行き先は、身体が憶えている。見慣れた景色をたどっていくあいだ、あたしはどこかわくわくしていた。道中で彼にでくわしたら……そのときは彼の勝ち。どうか見つかりませんように、その祈りが通じたのか、山の端からようやく顔を出した月明かりを浴びて、彼の住むマンションが見えてきた。
これは賭けだった。彼が留守なら、いったん引き分け。彼がひとりで部屋にいたら、彼の勝ち。でももし、あのときの女があたしを出迎えたら――あるいは彼の玄関に、女物の靴が見えたら、そのときはあたしの勝ち。
彼の部屋の前に立つ。息を吸い、迷いなくインターホンを鳴らした。不思議と心は凪いでいた。
彼のあどけない寝顔が好きだった。
隣から聞こえる規則的ですこやかな寝息が好きだった。
寝惚けているときのふわふわした声が好きだった。
ほんとうに、大好きだった。
一枚ドアを隔てた向こうで、こちらに近づいてくる足音が聞こえる。これで引き分けはなくなった。鍵を開ける音がして、ドアノブが回転する。ゆっくりと、合金製の扉が押し開かれる。あたしの勝ちか、彼の勝ちか。勝敗が決まる瞬間を、あたしは笑みを浮かべて待ち受けた。
どちらに転ぶにしても、あたしが彼に告げる言葉はもう、決まっているんだから。
Fin.
最初のコメントを投稿しよう!