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指先で摘んだ何かを灰色の上にまぶす。それから写真に向かって無感情に手を合わせた。知らない人達にお辞儀をして、その場を去る。
僕は何をやっているんだろう。
なんだかもう分からない。ただ一つ分かるのは、君がもうこの世にいないということだけ。
まっすぐの廊下を歩く。無遠慮に明るい蛍光灯の光が真っ白の壁に反射している。そのわざとらしいまでの眩しい光からは、まるで気持ちの整理がつかない僕を嘲笑うかのようないやらしさを感じた。
廊下を進んだ先に彼女はいた。誰ともわからぬ人をお迎えするような格好。壁に背をつけて、つまらなさそうにスマホを眺めている。
「待っていてくれたんだ」と僕。
「まあね」と彼女。
結芽さんは、突然この世から姿を消した僕の友人、獏の恋人。僕たちは大学の同級生であり演劇サークルの同期であり、日々流れていく膨大な時間をゆっくりと気ままに食いつぶす仲間だった。
違いがあるとしたら、獏は結芽さんの恋人で結芽さんは獏の彼女だったということくらいだろう。そして僕はふたりにとってただの友人でしかなかったことくらいだろう。
獏には類まれなほどに優れた才能があった。彼の抱く信念は壮大で、彼の描く世界は幻想的だった。彼の紡ぐ物語に触れたら最後、誰もがその嵐のような激しい衝動に巻き込まれ思わず日常を忘れきってしまうほどだった。
結芽さんは獏の作品における中心的な存在だった。獏の物語を語るには結芽さんという女優なしには語れないし、獏の世界を描くには結芽さんの存在が不可欠だった。
それはまるで“ぬりえ”と“色鉛筆”の関係のように色濃く、美しい関係だったように思う。
「獏ってさ、変なやつだったよね」
結芽さんは左手に握るスマホから視線を移すことなく、ぶっきらぼうに語りかけてきた。
「いいやつだったよ」
「そう?」
「僕を親友と呼んでくれた」
「ぷっ……」と吹き出すような声を発し、結芽さんはようやくスマホから視線を外して僕に顔を向けた。彼女は少し疲れたような表情でいたずらな笑みを浮かべていた。
「それ、普通じゃん」
「普通だから、いいやつだ」
「なにそれ」
こんなふうに結芽さんと話すのは久しぶりな気がした。僕たち三人は出会った頃はいつも一緒だった。ふたりが付き合い始めてから僕らに距離が生まれた。ふたりは恋人同士で僕はただの友人なんだから、当然だ。
「獏ってさ、夢を食べる魔物なんだよね」
「まもの?」
「まもの」
なんの話か一瞬戸惑った。でもすぐにあの白いパンツをはいた鼻の短いゾウのような奇妙な動物の話だと分かった。
「もしかしたらさ、あたしの夢も食べられていたのかもね」
「え?」
「もう食べる部分も無くなったからお迎えがきた」
「あいつは少食だったよ」
鈍く空調の音がするだけで、異様なまでに静かな廊下はひどく居心地が悪い。壁や蛍光灯の安っぽい明るさが不気味に感じる。
「君だったらさ、あたしを食べたりしなかったんだろうね」
「なんだよそれ」
「ははは」
不謹慎な話題だ。少なくとも死んだ恋人の葬儀でする話じゃない。それなのに心なしかドキッとした自分もいて、恥ずかしい気持ちになった。
「ねえ、海に行かない?」
「恋人を亡くした女の子と行くところじゃない」
「親友を亡くした男の子を連れていくにはふさわしい場所だよ」
じっと僕を見つめる結芽さんの瞳はどこか淋しげで、その口調とは裏腹にひどく放棄的で不安定ななにかを感じさせた。
「海になにがあるのさ」
「なにもないよ」
「……」
「なにもないことを確かめに行くの」
それは彼女にとって大切なことなのかもしれない。これからも続く世界は、彼女にとってあまりにも平凡で、普通で、日常的すぎる。
平凡な世界を迎えにいくにあたって、平凡な僕は相手としてもちょうどいいのかもしれない。
だけど……。
「ダメだよ」
「なんで?」
「わからないけど」
結芽さんは「へへ……」と笑いながらそっと背を壁から離し、ゆっくりと歩きだした。僕をするりと追い越していく。軽やかに揺れる彼女の髪からはほんのりと柑橘の匂いがした。
「ばーか」
結芽さんは少し廊下を進んだあとに突如立ち止まり、僕には背中を向けたままそう静かに呟いた。
「君となんて、行かないよーだ!」
廊下で立ち尽くす僕に向かって唐突にそう大声で言い放つやいなや、結芽さんは勢いよく外に駆け出して、青空の向こうに走り去っていってしまった。
まったく葬儀の場で大声だなんて、結芽さんはやっぱり不謹慎な人だ。
……でも、だけど。
少しだけあいつが笑った気がした。
嵐が去って、すっかり空は青を迎える。
見上げてみれば、どこ迄も青。
──どこ迄も青だ。
〈fin.〉
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