五 八雲源之丞

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五 八雲源之丞

翌朝。源之丞が早くから出かけた。そして朝食後もまた出かけていった。 ……なぜ木槌(きづち)を持っていったのかしら。 大工道具を持っていった彼。洗濯物を干していた文子は不思議であった。そしてその翌日。文子は彼にまた森の奥へ連れ出された。 「あの、ゆっくりじゃないと、私は戻れません」 「……これ」 「これは、道標(みちしるべ)?」 木の杭が打たれた箇所。源之丞はこれの在処を教えてくれた。 ……こんなにたくさん。私のために。 進む道に作ってくれた目印。源之丞はそれを教えていった。 そして文子はあの花畑にやってきた。 「うわ?まだまだ咲いているのね」 「お前。帰って来れるか?」 「源様……」 自分が喜んだ花畑。ここに来れるように工夫してくれた源之丞。文子の胸は嬉しさで込み上げてきた。 「はい。これから、帰れます」 彼はまた木を見上げた。 「李はどうじゃ。食うか」 「はい。食べたいです」 狐面の彼。どんな表情かはわかるはずがない。だが、隣に立っている文子には笑っているように思えてならなかった。 大森神社の朝。文子はまず山の清水にて洗濯をする。その間、源之丞は朝飯の材料を調達してくる。森の中は食べ物の宝庫。山草はもちろん小川で魚を取り、この朝も豪華な食事である。 源之丞は一人で暮らしているので、基本、何でもできる。この朝も狐面の源之丞が囲炉裏端の鍋にて粥を作っていた。 「よし。できたぞ」 「美味しそうですね。あの、これは私が作った漬物です」 文子がやれることといえば掃除や漬物料理など。今朝はきゅうりの漬物を彼に出してみた。源之丞、この時だけ面を外しこれを手で掴み、ぼりぼり食べた。 「うまい!うまい。まだあるか?」 食べる時に文子を気にせず外す狐面。この動作、文子は面白かったが彼を傷つけないと素知らぬふりをしていた。 「はい。それと、粥です」 こうして二人で朝食を食べていた。ここに清吉がやってきた。彼は食事の邪魔をせぬよう源之丞への差し入れを置いて行くのだった。 食べ終えた文子。清吉に神社や村のことについて尋ねた。 「……文子さん。ちょっと、一緒に来てくださらんか。この神社の下に私の家があるんじゃ」 「清吉さんの家」 「ああ。わしの妻もおるのでの」 村の様子を知りたい文子。源之丞に相談してみた。 「清吉の家か。それならいいぞ」 「旦那様。後で迎えにきてくだされ」 「おう」 こうして文子は神社を降り、村の清吉の家にやってきた。 神社下の森を進むとある小規模の農家。清吉は妻と二人で細々と暮らしていると笑った。 「おい。連れてきたぞ」 「まあまあ。こんな娘さんが?」 足が悪いという老婆はトメと名乗った。文子を見て嬉しそうに家にあげてくれた。そこで文子はお茶を飲みながら、大森神社と源之丞の生まれについて村の話を聞いた。 「赤ん坊の源様が生贄になるなんて……それであんな火傷の痕があるんですね」 悲劇の話。聞いた文子は傷の深さに怖くなった。しかし清吉は嬉しそうだった。 「ほお?顔を見せたのか」 「珍しいですね」 ここで文子は小さく笑った。 「いいえ。多分、お面をつけ忘れただけだと思います」 老夫婦はハハハと笑った。 「まあ良い。それだけお前さんに気を許しているわけじゃ」 「珍しいんですよ?私だって昔は行き来して源様と話をしていたんだけど、あの階段が上れなくてね」 優しそうな二人。文子は思わず亡くなった祖母を思い出していた。二人が彼に対する思いが似ていた気がした。 「ところで。文子さんの事情は手紙を見ただけだが、わしらにも話を聞かせてもらえますかね」 「嫌ならいいのよ」 「いいえ?私はですね」 文子は二人に今までの経緯を話した。二階堂の家を出た理由。老夫婦は黙って聞いていた。 「なるほど?隣町の二階堂医院は確かに源之丞の父親が世話になった病院じゃ」 「その手紙ある泰三さんはね。とても厳格な人だったのよ。借りを返せないから、きっとそんな手紙を残したのね」 昔話。思い出した老夫婦。文子も話がわかってきた。 「私。それで祖母のいう通り。とにかく遠くに行こうと思って。それに神社と聞いて、まず伺って見ようと思って来たんです。でも」 「あんな神社でびっくりしたじゃろう」 被せるような清吉の言葉。文子はふっと息を吐いた。 「まあ。びっくりしました。でも、源之丞様はお優しい人で、今はその、ありがたいと思っています」 「そうですか」 ここで腰の曲がったトメは奥の部屋に下がった。清吉が真顔になった。 「そう。源之丞様は良い方じゃ。ですがのう。あなたのような若い娘が、いつまでもいても良い所ではない」 「……はい」 若い男が住む神社。いつまでも身を寄せていては良いはずがない。それは文子もわかっていた。現実を前に暗くなった文子。しかし清吉は続けた。 「それにですな。村人にはまだ、源様をよく思っていない輩もおる。わしはあんたに危害が及ぶのが心配じゃ」 「まだそんな風に思っている人がいるんですか」 「ああ。源様はそれをわかっておるので、ああして人を避けて山の上で一人で暮らしておるのだ」 ……そうか。私が一緒だと、迷惑なんだわ。 彼はそうは思っていないかもしれない。しかし、自分の存在は、静かに暮らす彼の邪魔であることには間違いなかった。 「私。早く仕事を見つけて、出て行きます」 「まあ。待ちなさい!ここであんたに話があるんじゃ」 清吉もお茶をぐっと飲んだ。 「わしはあんたに、頼みがあるんじゃ」 そしてトメはおはぎを持ってきた。二人は一緒に文子を見た。 「わしらは歳だ。いつ死んでもおかしくない。わしらが死んだら源様は一人ぼっちじゃ。それが心配でならんのだ」 「まだそんな歳では」 「いいえ。私達はいつお呼びが来てもおかしくないです。だからね文子さん、私と主人は何とか源様が、村人と付き合いができるようにしたいんですよ」 必死の顔。文子は二人の思いを聞いた。それは源之丞が少しでも村人と交流できるように、文子に橋渡しをして欲しいということだった。 「今でもな。源様が山で採るキノコや獣の肉は、欲しがる者が多く、高値で取引されておる。わしはそれを今まで米にしたりして返していたが、文子さん、あんたそれができないかね」 「私がですか?」 老夫婦はうなづいた。 「やり方は教えるし、お前さんのやり方でいい。できれば村人が神社に来て、源様とやり取りできるのが望ましい。あの神社は元々そういうことをしておったんじゃ」 「文子さん。返事は急がなくていいのよ。ゆっくり考えてちょうだいね」 「おばあさん……」 この時。部屋の戸がどんどん!と鳴った。 「おい。清吉。迎えにきたぞ」 「早いことで。お入りくだされ。開いてます」 するとバン!と引き戸が開いた。狐面の彼が立っていた。 「来たぞ。帰るぞ」 「まあまあ。源様。たまにはトメのおはぎでも食べてくだされ」 老婆のトメの声。狐面はぴくと動いた。そしてスッと部屋に上がると文子の隣にふわとあぐらをかいた。 「これか。どれ……うん。まあまあだな」 「ははは。元気そうで。文子さんもどうぞ」 「はい」 すると源之丞、文子を見下ろした。 「お前。まだ食ってなかったのか」 「これからですよ」 「早く食え。うまいぞ」 文子を思う源之丞。老夫婦は目を細めた。 「源様。よかったですね。お話相手ができて」 「ふん!食ったら帰るぞ」 急かす源之丞。文子も食べて清吉夫婦に挨拶をした。そして二人を振り見送ったトメ。ふと玄関脇を見た。 「あらま?私の好きな山草がありますよ」 「お前のために持ってきたのだろう……なあ、お前、どう思う。文子さんを」 「そうですね」 仲の良い若い二人。このまま一緒でも幸せそうな雰囲気。しかし、老夫婦はまさか文子が二階堂家の令嬢とは思ってなかった。 「お嬢さんだしな。あんな貧乏神社には、いてはくれんじゃろうな」 「……そうですか?私にはそう見えませんでしたけどね」 トメは夕焼け空を見上げた。 「見ましたか?あの荒れた手。それに、いくら逃げてきたとしても、私ならあんなボロ神社、一晩でごめんですよ」 「それでもいてくれるなら。少しは脈あり、ということか」 清吉の言葉。トメは笑った。 「懐かしい。私は、この家にお嫁に来た日を思い出しましたよ……」 「お前?そんな風に思っていたのか?」 老夫婦の思いを知らず、二人は夕焼けの道を神社へ向かっていた。夕暮れの源之丞。なぜか文子の後ろを付いて歩いていた。 ……もしかして。私の早さに合わせようとしているのかな。 田んぼの一本道。影法師。文子の背後をついて歩く狐男。文子が立ち止まると源之丞も立ち止まる。文子はくすくす笑っていた。 すると。目の前に大きな蛙がいた。それがぴょんと文子へ目掛けて飛んできた。 「きゃあ」 思わず文子。源之丞の背後に回った。彼の腰にしがみついた。 「源様!?あ、あれ」 「なんだ?蛙か。お前は蛙が怖いのか」 「だって。それ、大きいですもの」 「大きい?」 すると源之丞。喜んでしまった。 「どれ。捕まえよう……あ。跳んだ。これは見事じゃ!」 屈んで掴もうとする源之丞。文子はそれが嫌で駆け出した。 「おい?待て」 「先に行ってます!」 必死に走った文子。やっと神社の階段に戻ってきた。 「待て!おい」 振り返る背後に迫る源之丞、蛙を手に持っていた。 ……うわあ!あれは嫌よ。 階段を登る文子。しかしあっという間に源之丞に追いつかれた。前に回った彼、腕を広げ、文子を停めた。 「なぜ逃げる。俺が嫌いか」 「いいえ。はあ、はあ、だって蛙が」 「蛙?これか」 片手に掴んだ蛙。彼は首を傾げた。 「お前はこれが嫌いか」 「源様がお好きなら、どうぞお持ち下さい。でも文子は怖いです」 彼はちょっと考えた。そして、ポーンと遠くへ放り投げた。 「さあ。(かえ)るぞ」 「かえる?……ふふふ」 冗談を言ったつもりはない源之丞。笑う文子と一緒に階段を登った。 「うふふ。あはは」 「何がそんなにおかしいのだ。蛙を投げたからか?」 「いいえ?うふふ」 あんまり笑う文子。源之丞、また考えた。 「そうか……そんなに面白いなら。もう一回捕まえて」 その袖。文子は掴んだ。 「いいえ。蛙はもういいです。帰りましょう。源様」 狐面の源之丞。面の下の口角が上がっていた。 「よし。競争だ」 「えええ?」 カンカンと一本下駄で上がる源之丞。その広い背中、文子は笑顔で追いかけていた。 「大森源之丞」完
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