八 苦悩

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八 苦悩

源之丞に早く出ていってくれと言われた文子。ショックであったが、これを受け止めた。 確かにそうである。長くいるのは図々しい事。優しい彼に甘えていた自分が悪い。この話をされた翌朝。文子は朝の食事の支度をすると、森の奥の薬草畑にやってきた。 ……誰もいるわけないか。 ここに来れば気分が落ち着くような気がする文子。花に寝転んで囲まれてこれからをよく考えた。 ここにきた当初。まずは家から逃げたくて必死であった。そしてこの神社。意外にも居心地良く、優しい源之丞に甘えてしまった。 加えて清吉夫婦に源之丞が村人と交流できるようにしてほしいという願い。これをやろうとした自分がいた。 文子は自分が作った加工品や源之丞の採った山草や、獣肉を、この神社の参拝客に物々交換できれば良いと思っていた。 しかし、それは自分がここにいないとできない仕事。嫁でもないのにそれは不可能である。 ……私、どうすればいいだろう。 涙が出てきた文子。この時、伝助の嬉しそうな顔を思い出した。あれは父の経営する病院でも見た、患者さんの嬉しそう顔だった。 太陽が上がった山奥の花畑。その奥で源之丞が自分を見ていると知らない文子。花に誘われるようにこれからのことを定めた。 ◇◇◇ その夜。囲炉裏にて夕食を作った文子。彼に声をかけた。 「源様。お支度ができました。どうぞ」 すると。すっと襖が空いた。狐面の姿を見た文子。彼の機嫌が悪いと悟った。 「源様。私は今夜はもう休みます。どうぞ。ごゆっくり」 「……お前は。食べたのか」 「はい」 本当は食事など通らなかった。しかし、それを口にせず文子は自室に下がった。蛙がうるさい夏の夜。涙の文子は布団に入った。 ……優しい気持ちに甘えてはいけない。私は、一人で生きていかないと。 心細い将来。文子の熱い涙は幾度も幾度も流れていた。 翌朝。早く起きた文子。食事の用意をしていた。すると源之丞も早く起きてきた。なぜか彼は慌てていた。 「どこへ行く」 「……そこに、ネギを取りに」 「そ、そうか」 源之丞は密かに文子を見張っていた。 ……もしや。今日、出て行くのでは? 出ていけと言った源之丞。それは文子を思い胸が苦しいせいだった。彼女がいなくなれば心が晴れると思ったからだった。 しかし。今はそれ以上に苦しんでいた。 ……あんなこと。言うんじゃなかった……あれは泣いてばかりじゃ。 食事も取らず、何やら用意をしている娘。出ていけと言った手前、源之丞はどうすることもできずにいた。 夜も布団で泣いていた文子。障子の向こうで聞いていた源之丞。狐面の下。その顔は目に(くま)ができていた。 「源様。朝ご飯のしたくができました」 「あ。ああ」 そう言った文子。自分は食べず清吉の家に行ってくると言い出した。 ……まさか。そのままバスに乗る気か? 「な、何ゆえじゃ」 「これからの相談です。では、行ってきます」 昨夜、支度していた薬草や源之丞が採ってきた山草。これを持った文子は出かけてしまった。彼女の荷物の風呂敷は置いたまま。源之丞はこれだけは知っていた。 ひとりぼっちの食事。彼の口の中は、何の味もしなかった。 山の下。清吉の農家。 「おはようございます」 「おう。早いですね」 「文子さん。あら、元気がないですね」 清吉夫婦に早く見破られた文子。事情を話した。トメは悲しそうな顔で聞いてくれた。 「それで。やっぱり出ていきなさるのか」 「はい……でもその前に、源様に恩返ししたいんです」 文子は夫婦にある提案をした。 「神社の無人販売です」 「無人販売?」 「誰もいないのかね」 「はい」 文子の提案は、神社の境内に小屋を作り、そこに源之丞が山の幸を置いておくやり方だった。 「代金はお賽銭のように入れてもらうのです。お米なら置いて貰えばいいし。もし、お肉や魚の時は、手紙を置いてもらって取り決めるんです」 「なるほど」 「多分、獣肉なら源様は配達してくれるかもしれませんね」 手応えのある様子。文子はこれをやる日を決めるのがいいと言った。 「毎日ではなく。勝手市のように、毎月、第二土曜とか」 「まあな。そのほうが覚えやすい」 「いいですね。源様もそれならやるでしょうね」 「私。居候で、何もできませんでしたので、せめて、これを成功させて、それから出ていこうと思っています」 せっかく仲良さそうであった源之丞と文子。しかし源之丞が出て行けというなら、いられるわけもない。年寄り夫婦も源之丞を知る人物。彼の偏屈さを知っている。二人は文子を応援することにした。 「貴方には余計なことを頼んでしまったな」 「いいですよ?清吉さん。これくらい、させてくださいね」 「そうだわ?お父さん、今年の七夕の神社祭りを復活させるのはどうですか」 昔は盛大に祀っていた大森神社。今年はこれをささやかでも開催し、その時から無人販売をしたらどうかとトメは提案した。 「そうだな。毎月、七日にしても良いな」 「七日。あと、二週間ですね」 ……二週間だけ。お願いして置かせてもらえば。ダメなら森の奥に野宿すればいいし。 清吉は祭りについては何とか源之丞を説得すると話してくれた。これに安心した文子。村を後にしようとした。 「もし。あんた、あの薬草の人かい」 「勝手市のお客さんですか?」 呼び止めてきた女。赤ん坊がいるがお乳の出が悪いと打ち明けた。 「それなら良いお茶があります。明日にでも、お届けします。良ければ伝助君に取りにきてもらってくださいますか」 「ああ。あの子は隣だから。頼んでみるよ……でもね。そのお金が」 文子は首を横に降った。 「それはいいです。私も源之丞様の薬草を使わせてもらっているだけなので」 「悪いね」 「いいえ。赤ちゃんをお大事に」 この帰り道。他にも商品について呼び止められた文子。代金は不要と言い、神社に戻ってきた。 「おい。どこに行っていた」 「え」 どこに見えない姿。探したようやく彼が神社の屋根の上にいたと文子は気がついた。 「そこで。何を?」 「……それ」 「きゃあああ」 源之丞。屋根から飛び降りた。ふわと地上に降りた。 「大丈夫ですか」 「ふん!飯だ、飯」 「はい……」 漂ってくる匂い。囲炉裏には源之丞が作った粥ができていた。優しい源之丞。しかし、これにいつまでも甘えていられない。文子は椀に少々もらい、軽く済ませた。 「ごちそうさまでした」 「ああ」 「おやすみなさいませ」 悲しく部屋を出た文子。源之丞。俯いていた。 ……明日、出て行くのであろうか。気になって、口にできぬ。 あまりの心配。遠くを見ようと屋根に上がり文子を待っていた源之丞。帰ってきた文子。元気なふりをしているが、やはり寂しそうである。 胸が苦しい源之丞。食べ終えたのち、庭で木刀を振ってみた。夜の風、蛍が光る庭。木刀をいくら振っても、この苦しみは取れなかった。 八「苦悩」完
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