十 不治の病

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十 不治の病

晴れた朝。源之丞が目覚めると、文子がいなかった。 ……まさか?出て言ったのか?風呂敷、風呂敷! 彼女の部屋にはそれがあった。彼はまず胸を撫で下ろした。出ていけと言った日から、彼はよく眠れていなかった。 この気持ち。一体何なのか。どうしてもわからなかった。 おそらく文子は森奥の花畑に行ったはず。彼は母を待つ子供のように、寂しく囲炉裏の前で待っていた。 ……俺は一体、どうしてしまったのだ。今まで寂しいということはなかったのに。 そんな思いの中、文子が帰ってきた。手には薬草をたくさん抱えていた。 「なぜそんなに」 「村の奥さんで。赤ちゃんがいるのに。お乳が出ないそうなんです」 「そ、そうか」 「源様。あの清水にいる山椒魚を村の人に分けてもいいですか?」 「山椒魚。構わぬが」 「後で、お米にして返してくれるそうです」 そう事務的に話す文子。清水が流れる水場に行ってしまった。仕方なく源之丞。朝飯を仕上げていった。 「おい。朝飯ができたぞ」 「お先にどうぞ。文子は後でいただきます」 ……そんなことを申すが。あれは全然食べないかもしれぬ。 イライラする源之丞。それでも腹が減った。仕方なく食べた。そしてたくさん、文子に残し、森の仕事に向かった。 源之丞の仕事は森の幸を採ること。幼い頃からこれだけをやってきた彼。非常にこれに長けていた。 キノコや木の実の場所は暗記済み。獣道には仕掛けをし、これを見回るだけである。時折掛かっている猪。捕獲して嬉しいが、早くやれねばならぬ解体に難儀する。 早くというのは腐敗防止と匂いの発生である。源之丞は今までは獲物を担ぎ、神社の裏で解体していた。しかし、今は文子がいる。彼女の前で血生臭いことを彼なりに避けていた。 今の源之丞。この狩場にて獲物を解体していた。最初は戸惑っていたが、慣れるとこの方が楽であった。 要らぬ皮や骨などは土に埋め、肝心の肉だけを持って帰っていた。なので文子には残酷な光景を見せずに過ごせていた。 他の仕事。川に仕掛けた罠にて。魚を得ていた。中でも清水にいる山椒魚は滋養に良いとされ、高値で取引されていた。 他には貴重な猿の腰掛け、というキノコや、山にしかない希少なもの。全て源之丞は収穫の知恵を持っていた。 これ以外にも仕事があったが、源之丞は森の中の仕事は嫌いではなかった。 そして。熊よけに吹く横笛は祖父のもの。その調べを奏でると、孤独を忘れる気がしていた。 しかし、何をしても文子で苦しい源之丞。そんな彼。あまりの苦しみに気がつけば清吉の家にやってきた。 「爺は?」 「あら。行き違いですね。トメしかおりませんよ」 「そうか」 悲しそうな狐面。幼い頃から彼を知るトメ。彼に饅頭を渡した。そして湯を沸かしている二人きりの納屋。源之丞はポツポツと話し出した。 「あのな。うちにおる娘御(むすめご)なんだが」 「文子さんですね。気立の良い優しいお嬢さんで」 「ああ。あれは優しくて、その。俺はどうして良いのかわからんのだ」 孫の年の差。トメは何気に話を聞いていた。源之丞は心こぼしていた。 「一緒にいると楽しいのに。いないとこう、胸が苦しいのだ」 「……それは病ですね」 「これが病か?初めてなったぞ」 はいとトメはお茶をくれた。源之丞。真顔でしわくちゃのトメを見た。トメは笑顔で話を続けた。 「一緒にいたい、いないと寂しい。その人が心配でたまらない……」 「そうじゃ!その通りじゃ」 「その人を思うとドキドキする。笑った顔を見たい、泣いた顔を抱きしめてやりたい。ですかね」 「お前はすごい!して、その病はなんじゃ」 トメは目を細めてお茶を飲んだ。 「恋ですね」 「恋?それは、いったい」 「……好きになることです。男はそういう相手を嫁にもらうんですよ」 「よ、嫁に?」 びっくりして納屋の隅に移動した源之丞、犬のように怯えていた。トメは話を続けた。 「そうです。嫁にしないと、それは治りませんな」 「いや?そうは申しても。あれはその、出ていくと申しておった」 恥ずかしがっている源之丞。トメは立ち上がりゆるゆると彼を追い詰めた。 「それは、源様がそう言ったからですぞ……お前さんは、本当に文子さんがいなくなっても良いのですかね」 「ト、トメ?」 怖い顔のトメ。サッと狐面を取ってしまった。 「何をするのだ?」 「源様。文子さんは、お前さんが好きなんじゃ。だから、お前さんなんかと一緒にいてくれるし。あんな屋敷でも、一緒にいてくれるんじゃよ」 「あんな屋敷……」 彼女は狐面をスッと彼の横に置いた。そして自分の定位置に座った。 「そうじゃ。好きでもなければ、あんなお化け屋敷。いられませんよ。なのに文子さんはああしてお前さんの飯を作り、洗濯をしてくれて。ありがたいとは思わないのかね」 「そ、それは。あれは行き場がないから」 「家を出た時はそうでしたでしょうね。でももうあの器量良しなら、どこへだっていけます。それはお前さんだって、わかっているんだろう」 源之丞。俯いてしまった。 「……では、俺はどうすれば良いのだ。もう、出て行けと言ってしまったぞ」 落ち込む源之丞。トメははあとため息をついた。 「素直に言えば良いのですじゃ。今の話をそのままに」 「今の話?」 「そう!しかも早くです。さもなくば、明日にでも出て行ってしまうかもしれませんぞ」 すると彼はスッと立ち上がった。 「わかった。すぐに言うぞ」 「はい、これ饅頭です。二人で食べなされ」 「おう。トメ」 狐面をつけた彼、スッとトメに頭を下げた。そして風のように駆けて行った。 若者の青い夏。彼女は懐かしそうに彼の背中を見送った。 「はあ、はあ。ただいま」 「おかえりなさいませ」 戻ってきた夕暮れの大森神社。カラスがなく境内の奥の母屋。囲炉裏にて。夕食を作っていた文子。やはり元気がなかった。 出来上がった鍋。これを彼に手渡した文子。話をしようとする源之丞、きっかけを掴めずにいた。 しかし、文子が先に口を開いた。 「源様。食べながら聞いてください。文子はお世話になりましたが。あと二週間で出ていこうと思います」 「に、二週間!」 吹き出した源之丞。文子は悲しくなった。 ……あんなに驚いている?やっぱりもっと早く出て行った方がいいのかな。 涙を飲んだ文子。必死にお願いをした。 「二週間は長いですよね。でしたら、あの、山の奥の炭焼き小屋の跡にでも」 今は廃墟の古屋を発見した文子。第二希望を言ってみた。 「……ならぬ」 ……あそこもダメ?使ってないのに。そんなに出ていって欲しいのね。 「わかりました。では、明日にでも」 こんなに嫌われてしまった文子。情けなくなっていた。この時、彼は立ち上がった。 「来い」 「え」 文子の手を引いた。そして夜の縁側にやってきた。 「座れ」 「はい」 二人で石投げをした池。浮かぶ月。夏の虫の音がしていた。狐面の源之丞。月を見上げていた。 「あのな……俺は死ぬかもしれぬ」 「死ぬって?え」 真剣な彼。面の顔を向けた。 「俺は病になった。治す薬がないらしい」 「そんな」 ここのところ食欲がない源之丞。それを知っていた文子。彼の横顔を見た。 「トメが申すには、恋というものらしい。俺は、お前に恋をしているそうだ」 「恋……」 淡々と話す狐面。しかし文子の胸がドキドキしていた。 ……源様は本気で言っているわ。ちゃんと聞かないと。 「ああ。それにだ。トメは、お前も俺に恋をしているのではないか、というのだが。それは真か」 「私も?あの源様……」 ……どうしよう。でも、嘘はつけないわ。 心、まっすぐの源之丞。文子は大好きだった。この思いの文子の逃げ場はない。せめて、想いだけは伝えたい。文子は勇気を出した。 「はい……文子は、源様が好きです」 「それは、その、どういうものじゃ?俺といると、お前も胸がドキドキするのか」 ……なんてことを聞いてくるの?でも、でも。 月の明かりの勢いで、文子は打ち明けた。 「ええ。いつもドキドキします。でも、おそばにいるとホッとします」 「ホッとする……俺も安心するぞ。お前がいると心が和むし、優しい気持ちになる」 腕を組む源之丞。不思議そうに文子を見た。 「だがな。いないと寂しくて、こう、心が苦しい。だから、お前に出て行ってもらおうと思ったのだ。だが。今はもっと苦しいのだ」 「では……文子を嫌いになったのではないのですね」 源之丞。首を傾げた。 「ああ。嫌いではない。いつもお前のことばかり考えておる……トメに申すと、この恋は、嫁にしないと治らないと申しておった」 ……トメさん。なんてことを。 嬉しいやら、恥ずかしいやら。しかし、強引な話でもある。トメの気持ちはありがたいが、言われるまま嫁に来るのは、源之丞の気持ちが入ってない気がした。 「あの。源様はいかがですか?私に、嫁に来て欲しいのですか」 「うーん……嫁というのが、よくわからん。そもそも、お前はもう一緒に住んでおるし。嫁とは、何が違うのじゃ?」 「え」 あまりにも疎い源之丞。文子も困ってしまった。しかし。判明したこと、文子が嫌いなわけではない。好意を持ってくれていることははっきりした。 ……今は。まだそれだけで十分よ。こうして、一緒にいられれば。 「どうした?」 ……それに。私も気持ちを伝えないと。源様にはわからないんだわ。 「源様。私は、源様が好きです。ここでこうして、一緒にいられるのは幸せです」 「ボロ屋だぞ。ここは」 文子は首を横に振った。 「好きな人のおそばにいれば。それは幸せなのです。文子は、その、源様の胸の中が、一番安らぎます」 「……俺の、ここ?」 彼は胸を指した。文子はうなづいた。 「左様か……ここか………では、く、来るか?」 ちょっと恥ずかしそうな源之丞。しかし、文子はちょっと笑った。 「今は、いいです」 「なぜに」 「それは、その。そういうのは。その、私がお願いして、行くところではありません」 「ん?また難しくなった」 首を捻る源之丞。文子は微笑んだ。 「源様。では、文子はここにいて、宜しいのですか?」 「ああ。いてくれ」 優しい言葉。文子。やっとの思いで声を出した。 「その……二週間過ぎても、夏が終わっても」 「ああ」 「……こ、こに、私はいても……」 「お前?」 これ以上は声が詰まって出てこなかった。出ていこうとしていた文子。涙が出た。 この様子。彼女を苦しめていたこと。源之丞、ようやく気がついた。気がつくと、彼女を抱きしめていた。 「泣くな!お前に泣かれると辛い」 「……源様」 「ええい。面が邪魔じゃ」 彼はそう言って狐面を外し、胸に抱きしめ彼女の顔を押し当てた。 「すまぬ。泣くな。お前が居たいのはここなんだろう?」 優しい胸の中。文子、すがって泣いた。 「はい……」 「良いか?どこにも行くな……」 彼は髪を撫でてくれた。文子は思わず目を閉じた。 「本当に……良いのですか」 「ああ、俺の胸の中にいろ。一緒に、一緒にいよう」 「源様……」 彼の胸の鼓動が聞こえた文子。その中で揺られていた。月はそんな二人を静かに見つめていた。 完
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