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一 追跡
「奥様。製薬会社の人がお見えです」
「通してちょうだい」
二階堂病院の事務室。その奥の理事長室に背広を着た男が入ってきた。にこやかな紳士に見えるが、その笑顔は冷たく無機質であった。
「どうも奥様。ご無沙汰しております」
「いいえ。お掛けになって」
理事長をしている照代。化粧を施した顔でそう言い、男に笑みを浮かべた。製薬会社の鈴木は世間話をこぼしながら話しだした。
「例の試薬の件ですが。いよいよ政府の公認が受けられるようなんです」
「ようやくですね。ここまでお疲れ様でした」
「いいえ?奥様のおかげです」
まだ認証されていない医薬品。二階堂病院では製薬会社に頼まれてこの試薬を非公式に患者に試していた。この人体実験を元に公認を受けられると彼は笑った。
「妊婦に投与すると異常児が生まれると判明したのは二階堂さんのおかげです。これは重要なことですから」
「あの赤ちゃんはその後亡くなりましたが。妊婦は薬のせいとは思っていませんのでご安心を」
「いつもいつもありがたいです。実は、今回は、新薬についてお持ちしました」
鈴木が広げたの薬。白い粉だった。
「これは?」
「……奥様はアヘンをご存知ですよね」
鈴子はそう言ってソファに背もたれた。
「これはその成分で作られたものです。体が元気になりますので、風邪にも疲労にも効きます」
「アヘンでしょう?では、麻薬じゃないの?」
「……成分は抑えられています」
鈴木は言葉を選びながら、真顔で向かった。
「しかし。確かに依存性があります。なので、一度使ったらやめられませんよ」
「それは、そうですけど」
恐々と手に取った照代。鈴木はタバコに火をつけた。
「大きな声で言えませんが。これは政府でも進める気です。近い将来、戦争があった時、戦地で使用できますからね」
「でも。うちの病院でどうやって使うの?」
「痛い止めで、どんどん使ってくださいよ」
鈴子は革のバックを広げた。たくさん入っていた。
「病の末期の患者にはもったいないので。若くて、これからも使うような患者にお願いします」
「死にかけよりも、まだ生きている人ってことね」
「ええ。実験したいんですよ」
黒い話。そこに何も知らぬ看護婦がお茶を持ってきた。美麗な鈴木に頬染める若い看護婦。照代の一睨みで早々と下がっていった。
「奥さん。毅先生にぜひ勧めておいてくださいよ」
「わかりました。主人に伝えておきます、ところで」
照代もキセルに火をつけた。ふうと煙を吐くまで鈴木は待っていた。
「うちの文子さんを知っているでしょう」
「ええ。長女のお嬢様ですよね」
口には出さぬが、鈴子は二階堂家の実情を知っていた。
「……あなたに相談があるのよ」
赤い口紅の照代は、鈴木に文子が不在だと打ち明けた。
「いなくなった?でも毅先生も探しているのですね」
「ええ。あなた。探せないかしら」
「文子さんですよね」
広く営業をしている鈴木。照代の話に彼は、静かにうなづいた。
「まあ。できる限りやってみましょう」
「お願いよ」
「奥さん。では。その薬をお願いします」
鈴木は事務室を去っていった。その後、会計係が入ってきた。
「奥様。ちょっとこれを」
「どうしたの」
「……最近入った算盤係が、計算が合わないと言い出して」
二人の息子のために病院の金を使い込んでいる照代。この経理担当の男を抱きこんで二重帳簿で誤魔化していた。それを何も知らない新人娘が指摘しようとしていると知った。
「正義感がありまして。このままでは危険です。辞めさせた方が良いかと」
「何の理由で?返って目立つじゃないの」
その時。照代はちらと鈴木の薬が目に入った。それを手に取った。
「……そうね。その前に、この薬を飲ませてみましょう。私の言う通りにしなさいね」
照代に弱みをつけ込まれている経理の中年男。新人娘のお茶にこれを混入する約束をした。
一週間後。新人娘は一身上の理由で辞めて行った。
「あら?都合良かったじゃないの」
「はい。こっちも肩透かしで。はあ、はあ」
「……どうしたの?そんなに汗をかいて」
経理の男は異常な汗。そして照代が渡したコップの水を一気飲んだ。
「も、申し訳ありません。あの薬。奥様、あの薬はありませんか」
「あなた……何をしているの」
驚きの照代。中年男はまだ水を飲んでいた。
「いや。その。多分ですね。私が淹れたお茶を、あの新人はその」
「まさか。飲まずに、あなたに飲ませたって言うの」
「わかりませんが。はあ、はああ。奥様。薬を」
照代は机に入っていた薬を彼に渡した。彼は奪うように取り、飲んだ。
「どう言うこと?あの算盤係は何なのよ」
「はあ、はあ。さあ?私は、これで」
頭が真っ白な照代。慌てて新人娘の履歴書を見た。一般的な経歴。これを持って書いてある住所に車を走らせた。
……ここ?空き家じゃないの。
何年も誰も住んでいない様子。近くにいた住人の話では、そん新人娘は知らないと言われた。
……一体、誰なのよ。気味が悪いわ。
怒り心頭で自宅に戻った照代。自室で考えていた。
一郎の件、次郎の件。恨みは散々買ってきた。他にも数えあげたらキリがない。この手は真っ赤な血で染まっている。しかし、今は金である。病院の金が足りないのである。
具体的には人件費。看護婦たちの給金。これを賄うために、現在は看護婦長に入院患者には高い個室や高額治療を勧めさせていた。
それでギリギリ状態。しかし、例の鈴木の新薬を使用すれば、鈴木の会社から報酬がもらえる。照代はこれに賭けるしかなかった。
この夜、早く帰宅した毅に鈴木の新薬について話した。
「ああ。あれは金になるが、危険な薬だ。いくら話があっても使えないよ」
医者として真っ当な毅。現在はこの薬を痛みを伴う重篤患者にしか使用していなかった。死にかけの老人はこのおかげで楽に死んでいたが、毅はこれでも反対だった。
「でもあなた。使わないと利益が足りませんよ」
「なぜだ?なぜそんなに経営がおかしいのだ。私は従来通りに診療している。母さん時はそんなことはなかったぞ」
正しい毅。使い込みの話ができない照代。ここで悲しい顔をして見せた。
「あなた。これを見てください」
「ん?母さんの通帳の写しか。こっちは文子?」
その額。毅は押し黙っていた。
「どう言うことだ。高額じゃないか」
非道な手段で手に入れた情報。照代はこれを夫に見せた。
「お義母様は、病院のお金を使い込んでいたんです。そのお金を文子が持ち逃げしたいんですよ」
「まさか?」
信じられない毅。照代はもう一押しした。帳簿を出した。
「これは二重帳簿です。会計係はようやく白状して。お義母様に指示されたと言っていました」
薬で狂っている会計係はもう照代の言いなり。今は最悪の状態であったが、毅を騙す最後の好機でもであった。
「なんてことだ」
頭を抱えた毅。照代は微笑みを我慢した。
「あなた。私は文子を探して、お金を返してもらいます。ですが、その間、例の新薬を使いましょう?このままでは破産よ」
「信じられない」
「あなた、しっかりして。私が、私が付いていますよ」
「おお、照代。お前だけが頼りだよ」
医療しか知らない毅。照代はその痩せた肩に、手を置いた。
……お義母様。ありがとうございます。
誰も見ていなかったが、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
一 追跡 完
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