一 壊れた家

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一 壊れた家

文子(ふみこ)……どこにいるの」 「お婆さま。私はここにいるわ」 奥座敷。誰もこない部屋。寝たきりの老婆。文子は優しく手を取った。最近は目が見えなくなっている祖母。痩せ細った手。孫娘を手探りで探していた。 「ああ。お前の手は暖かい………いいかい。お前に大事な話があるんだよ」 そう言って息も絶え絶えの祖母は布団に身を起こした。文子の手を握っていた。 「水を」 「はい。ここよ」 祖母は水を飲むと一息ついた。 「私はね。お前の身の上が心配なんだ。お前はこの家にいては、幸せになれない」 その目は真っ赤に充血していた祖母。文子は息を呑んだ。 「お婆さま。何を言うの」 「黙ってお聞き」 明治から続く医師の家、二階堂(にかいどう)家。現在は文子の父、二階堂毅(にかいどうたけし)が院長を務めていた。息子が後を継ぎ幸せのはずの祖母。真剣な目で孫を見つめた。 「お前は先妻の娘だからといって、学校にも行かせてもらえず……娘時代なのに私なんかの世話をして……本当に可哀想なことをしたよ」 「そんなことないわ」 「……その水を取っておくれ」」 文子は祖母に水を飲ませた。 「はあ、はあ。いいかい。私はもうすぐ死ぬ」 「お婆さま?」 「文子……その引き出しを開けてご覧」 祖母の嫁入りの箪笥。着物の下に、通帳と判子があった。 「これは?」 「私の財産を。お前の名前にした……隠し持っていなさい」 最近、弁護士を呼んでおり不思議だった文子。これで合点がいった。 「どうしてこんなことを」 「私が死んだら。お前はこの家から一生出られない。今以上に奴隷のようにこき使われるだけだよ」 苦しみの声。祖母は筆を持てと文子に言った。 「何を書くの」 「私の言う通りにしなさい……『今までお世話になりました……』」 祖母が話す文面は文子が家出をするという内容だった。祖母の思い出がある家にいるのが辛い。これからは家族に迷惑をかけぬよう、一人で生きていく、と言う内容だった。 誰もが納得する名文。女学校を出て、看護婦をしていた祖母の死に際の叡智。文子は息を飲みつつ、祖母の指示通りにしていた。 「これでいい……そして、これ、この手紙だ」 「何ですか」 古い手紙。さすがに苦しいのか横になった祖母は話し出した。 「昔……この病院ができた頃、大怪我の人がいてね。私も看護をしてその人は治ったんだけど、ご家族はお金が払えなかったんだよ」 当時の医師の二階堂の祖父。優しい祖父はそんな人も許して助けていたと祖母は笑った。 「その人は神社の人だった。お金の代わりに、何か困った事があったらその手紙を持って訪ねて欲しいって言っていたんだ」 「隣町なのね」 「ああ……もうその人はいないかもしれない。でも逃げるならここから遠い方がいい。そこで、相談して仕事を探しなさい」 「お婆さま。もう休みましょう。疲れたでしょう」 年寄りの大袈裟な心配だと布団を掛けた文子。しかし祖母は強い力で孫娘の手を握った。 「文子。私の四十九日の間は、この部屋で、ずっと写経をしていなさい。そして、法要が済んだらすぐにお逃げ。すぐにだよ」 「わかったわ。心配しないで」 本気の祖母。どこか怖い気がした文子。しかし、祖母は本当にその数日後に亡くなった。 ◇◇◇ 「全く。こんな忙しい時期に死ぬなんて。どこまで私を苦しめる気かしら?」「……私は今日の学会に顔を出して午後に家に戻る。それまでお前が通夜を仕切れ」 「私が?面倒なことは全部私なんて」 病で死んだ先妻の後。後妻に入った照代。仕事人間の医師の夫、毅。働き盛りの四十三歳。彼に冷たくそう言い渡された元は看護婦でこの病院で働いていた照代は三十五歳。格式高い仕来たりは苦手であった。厳しい姑と対立した結果、それを引き継げるはずもない嫁だった。 地元の大病院の通夜。これをやる自信もなく、金切声を上げていた。 「文子にやらせろ。後は任せた」 「そんな」 毅にすれば、文子は母を看取った実娘。信用している事が照代には許せなかった。しかし、自分は妻として通夜をやらねばならぬ身。照代は文子に命令を飛ばした。 「何をグズグスしているのよ。私に恥をかかせる気?」 「申し訳ありません。あの、お母様。それに、もう弔問の方が見えています」 「は、早く言いなさいよ」 祖父の葬儀も手伝った文子。二度目の経験なので手順を心得ていた。病院関係者も手伝う通夜。腹違いの弟達も弔問客の中で挨拶をしていた。 弟、一郎は医学生。二郎はまだ高校生。二人とも英才教育を受け優秀だった。今は二十歳の女の文子には学問は不要とされ、彼女は尋常小学校しか出ていなかった。 そんな文子は日陰の身。今までずっと祖母の世話をしていた。親族でありながら通夜の席を取り仕切っていた。 そして通夜。翌日に葬儀が行われた。祖母の棺の前。涙したのは毅と文子だけだった。 ◇◇◇ その後。弔問客が絶えない二階堂家。照代は必死に相手をしていた。この間、文子はいつもの家事をしていた。 医師の父は仕事人間。家のことは今まで亡き祖母に任せていた。そんな祖母が老齢し照代に任せるようになっていたが、実際、照代は遊んでばかり。家のことは文子が動かしていた。 「文子さん。仏壇の花は何?あんな安い花、恥ずかしいわ」 「わかりました。変えておきます」 頂き物の花。しかし機嫌の悪い照代の前。文子は謝った。 「気に要らないわね。お前、私を馬鹿にしているでしょう」 「そんなことは」 「うるさい!口ごたえする気なの!」 照代は文子を足蹴にした。倒れた身。その上に馬乗りになった。 「何よ、その目。何様のつもりなの?この家は私の家よ」 「やめて、お義母様」 日頃の己の不出来。反してうまく立ち回っている文子。先妻によく似た色白美人。照代は文子が憎くて、憎くて仕方なかった。 顔、頭を怒りに任せて打つ照代。文子は必死に手で防いだ。 「ふざけやがって。私を馬鹿にして」 「やめて下さい。お願い」 やがて疲れた照代。髪を乱し立ち上がった。 「はあ、はあ。今度馬鹿にするような態度なら、容赦しないから」 「……すいませんでした」 そんな文子。家事をした後、祖母の部屋で写経をした。この時間は父に許された時間だった。 ……お婆様。お婆様の言う通りになってしまったわ。 般若心経。和紙の書に落ちたのは悲しみと、祖母の愛情の涙。もうすぐ四十九日の法要。文子は月夜に意思を固めていた。 ◇◇◇ そして法要の席。亡き祖母の老弁護士が同席した。 「何ですって?保険金を解約していた?」 「はい。大奥様の意思でそうなっています」 四十九日の場。奥の間の親族会議。相続の話。照代は姑の財産に愕然としていた。その他の遺産も、姑は少ししか残していなかった。毅も驚いていた。 「父の遺産もあったはずだが。まさかこれしか残ってないとは」 「一体何に使ったのよ」 「これをどうぞ、生前の奥様の書を預かっていました」 姑が懇意にしていた老弁護士。直筆の手紙を見せた。照代は奪うように取った。 「『株投資で騙されました。財産を使い果たしてしまいました。申し訳ありません』って。これ、どう言う事ですか!」 「大奥様の遺書です」 「なんて事?死んでまで迷惑をかけて」 イラ立つ照代。毅はこれを制した。 「黙れ。騙されたのは二階堂家の恥。それにどうせ母にはそんな大金はなかったはずだ」 「でも。あなた」 「親戚の前だ。慎め」 毅の仕切りで静まった席。ここで親戚の大叔父が呟いた。 「まあ、それはもういいじゃないか。ところで。一郎君も二郎君も。優秀で素晴らしい。二階堂家は今後も安泰だろう」 元から相続に関係の無い大叔父。毅は小さく首を垂れた。 「ありがとうございます」 「跡取りは心配ないな」 二階堂の親戚。祖母を看取った文子を見ることもなかった。この日も下座で冷遇の文子。黙って話を聞いていた。 ……誰も、お婆様を偲ぶ人はいないわ。 親戚たちは皆、病院関係者。そこで給与を得ている人ばかり。亡くなった祖母は祖父とこの病院を始めた功労者。生前の祖母は必死に働き、誰にでも優しくしていた。それを思い返す人はなく、仕事や金の話ばかりであった。 親戚は祖母の財産がないとわかると早々と話は切り上がった。 「納骨も終わりましたし。では、以上で」 母の死にも無関心な父の毅。それは二人の腹違いの弟達もそうだった。やがて悲しい四十九日の法要は終わった。 「夕飯の支度……文子。文子はどこなの。一郎」 「さあ。自分は知りません」 「何をサボっているのよ」 怒り心頭で家中を探す照代。台所、風呂、洗濯場、部屋。どこも清掃され「整ったまま。胸騒ぎの照代は必死に文子を探した。 そして。最後に奥座敷にきた。 「文子!お前、仕事を」 しかし、そこには誰もいなかった。姑の机の上。文があった。照代は震える手でそれを読み、絶叫した。 ◇◇◇ その頃。文子は汽車に乗っていた。明治政府の官設鉄道となった栃木駅から隣町の神社を目指していた。四十九日の法要後。すぐに家を出ていた。不思議と寂しさはなく、心は不安の方が大きかった。 ……お金があっても。仕事を探さないと。 二階堂は名家。この名前だとすぐに居場所が知られてしまう。文子は思い切って、亡き母の『野田』姓を名乗ろうとしていた。 どんどん離れていく故郷。ほとんど家から出たことがない文子。進む景色に胸がドキドキしていた。これから先の運命。小さな風呂敷つつみ一つ。それを抱えて前を見ていた。 日が西に沈みかけた午後。隣町の足利(あしかが)駅を降りた文子はバスに乗った。行き先は八雲(やくも)神社だった。 ……神社だもの。とにかく行ってみよう。 農園が続く村はずれのバス停は終点だった。そこから降りて進む先。見上げると山の中腹にあるうっそうとした神社。文子は意を決して夕暮れの長い階段を上がっていった。 そしてやってきた神社の境内。その神社は痛みがひどく、損傷していた。 ……誰も、住んでいないかもしれない。 思わず息を呑んだ文子。しかし、その奥にぼんやり灯が見えた。誰かが住んでいる、そう思った。彼女はゆっくりとそちらへ向かった。 古い木造建築。玄関を開けた文子。すると奥から声がした。 「なんだ。爺か」 声の主は男性。誰かと勘違いした様子。文子は声をかけた。 「あの。すいません」 「だ、誰だ!?」 声をかけると奥から聞こえた男の声。驚きの返事だった。 「帰れ!用はない!」 「すいません。私、お願いが合ってきたんです」 「知らぬ!とにかく帰れ!」 姿も見えない様子。とにかく怒っていた。 ……どうしよう。手紙も読んでもらえないわ。 そろそろ暗くなる。他に行く宛のない文子。しかし、こう拒絶されてはここにはいられない。 奥の男の沈黙は拒否を示していた。文子はやってきた意味を告げようと手紙を玄関に置いた。 ……やっぱり、お婆様の言った通りだわ。この手紙はもう頼れないわ。期待した私がいけなかったんだわ。 誰もいない玄関。頭を下げて文子は出てきた。外はすっかり夕暮れ。今夜の宿はない。 彼女はゆっくりと神社の階段を降りた。 ……さっきのバス停は屋根付きだから。あそこなら一晩くらい、寝れらそうだわ。 誰もいない村の外れ。一人ぼっちの文子。真っ暗になる前にバス停まで戻っていった。単衣の着物、風呂敷包み一つ。夏の始め、静かな農村。虫の音、涼しい風、星の世界、文子はバス停へと疲れた足で歩いていた。 ◇◇◇ 「旦那様、誰かお客様でしたか」 「女が来たが、知らぬ」 「バス停に若い娘がいましたが。それですかね」 使用人の老人、清吉は玄関の手紙を彼に渡した。 「玄関にありましたぞ」 「なんだ、これは」 「その娘が置いたのではないでしょうか」 彼は機嫌悪そうにこれを読み始めた。 「『八雲家の者よ。我、二階堂家に多大なる恩あり。よってこの文を受け取った八雲家の子孫よ。必ずや、力となれ、八雲泰三(やくもたいぞう)』とあるが。爺、知っておるか」 「泰三はあなた様のお爺さまです。二階堂?……そういえば」 爺は昔を思い出した。 「大昔。泰三様の息子、つまりあなた様のお父様は大怪我をしたのです。その時、私も一緒に隣町の巴波川のそばの二階堂病院に行きました。そこで命が助かったんです」 「それが、なぜこのようなことになるのだ」 「医者代を払えなかったんです。高い薬代でしたので」 彼はここで外を眺めていた。一番星が光っていた。 「して、親父達はどうした」 「その後、野菜など送っていたと思いますが。あの時の医者代は払ってないでしょうね」 床が落ちそうなこの屋敷。彼はため息をついた。 「……今更、何なんのだ。しかも、この俺に金を払えと申すのか」 「さあ?ですが、この手紙を持ってきた若い娘は、バス停にいましたよ」 「バス停?もうバスなど来ないであろうに」 彼はスッと柱時計を見た。爺は持ってきた野菜を広げた。 「その文。おそらく訳ありでしょうね。あの様子だと、バス停で明日まで待つのではないでしょうか」 「……若い娘。平気なのか、あんな場所で」 珍しく人に関心が出てきた様子。爺は気付かぬふりをした。 「さあ?熊でも出るかもしれないですな」 「熊って。お前。それでも良いのか?」 「良いも悪いも。旦那様が決めること。爺は知りませぬ」 「……くそ!」 彼は壁にかけてあったお面をとった。そして夜の境内を走り、階段を下っていった。 まるで忍者のような素早さ。森を、夜を、時間を、思いを駆け抜けて行った。そして、見つけた。 「はあ、はあ……おい。娘!」 声がしたので文子は恐る恐るバス停から顔を出した。 「きゃあ」 そこにいたのは狐のお面の男がいた。肩で息をしていた。 つづく
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