八 落葉

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「ごめん下さい。薬草茶が欲しいのですが」 男の声。こんな緊急事態。文子は断ろうと玄関に出た。 「すいません。今はありません。お引き取りを!」 「おやおやこれは」 黒いスーツの男。そっと帽子を取った。綺麗な顔。男か女か。わからぬ顔だった。 「二階堂のお嬢様ではありませんか」 嬉しそうな男。文子は知らない顔。ゾッとした。 「違います。とにかくお帰りください」 「……これはヤマカガシという毒蛇です」 男はバサと蛇を文子の足元に投げ捨てた。三匹だった。 「猛毒で。しかも三匹分です。今は平気ですが。早く血清を打たねば死んでしまいますよ」 「あ、あなたは誰なんですか」 男はニヤリと微笑み、名刺を出した。 「製薬会社の者です。あなたの勝手市場の商品が気に入りましてね。取引をしたいんです」 「取引」 背後では苦しむ源之丞の声。文子は背中に汗をかいていた。 「そうです。あなたは薬草の知識がある。そこでこの森で大麻を作ってくれませんか」 「そ、そんなこと、できるはずありません!」 すると。男は黒いカバンから小瓶を取り出した。耳の横でこれをかざした。 「ここに。毒蛇の血清があります。私と契約してくださるなら、これをお渡ししましょう」 「血清」 ヤマカガシは一番の猛毒。しかも三匹なら血清を打たねば源之丞とて命が危ない。文子は目の前が真っ暗になった。 「どうして。こんなひどいことをするんですか?」 「……私も交渉に来たんですが。ちょっと許せないことがありまして」 彼はズボンとスッとあげた。そこは包帯が巻かれていた。 「まさか?あなたがあの罠に?」 「村の小僧を後をつけて。森に潜んでいたんですが。甘い匂いに誘われましてね」 猪の罠で怪我をした男。ここで恐ろしい顔になった。 「おい!なんてことをしてくれたんだ!?ええ?死にたいのか。俺の足に傷をつけやがって!」 文子の着物を掴んだ男。打たれると思った瞬間。相手の男が倒れされた。 「源様?」 「はあ、はあ。俺の娘御に触れるな……」 「へえ?まだ動けるんですね」 口の血を拭う男。ゆっくりと立ち上がった。息も絶え絶えの源之丞。男に叫んだ。 「帰れ。立ち去れ」 「源様!薬がないと」 「……ふふふ。はっは」 倒れた男。立ち上がった。 「今ので、ほら。割れてしまった」 「そんな……」 「お前のような者の……薬など、要らぬ……この悪魔め。立ち去れ!去れ」 文子に肩を持たれる源之丞。立っているのがやっと。体も熱くなってきた。 男は体の泥を払い、スッと帽子を被った。 「非常に残念です。では、お嬢様。お達者で」 男はそう言って去っていった。 「うう」 「源様!?家に入りましょう」 泣くのは後。文子はまず彼を寝かせた。そして噛まれた箇所を確認した。足が二箇所。腕が一箇所だった。 熱で唸る額の汗。震える体は悪寒の証拠。額など冷やしても無意味。体に毒が回っている。 「だ、だいじょうぶだ……そんな顔するな」 「源様」 そんなはずはない。ひどい頭痛がするはずなのは医者の娘の文子は知っていた。 ……血清を早く打たねば……死んでしまうわ。 明日など待てない文子。夜の神社を提灯を片手に飛び出した。途中にあの男にある危険も忘れた文子。夜の清吉の家にやってきた。そして事情を説明した。 「では。源様を二階堂病院に運ぶのですか」 「はい。二階堂には毒蛇の血清が揃っています。二階堂にしかないんです!」 この時、寝巻き姿のトメが口を開いた。 「ですが。そんなことをしたら。文子さんは、家に帰らんとならんぞ」 「今はそんなことを言っていられません!源様の命を助けないと」 文子の切迫した状況。とにかく清吉は文子と一緒に夜の神社に来てくれた。 そこで大汗で苦しむ源之丞を見た。清吉も二階堂に行くことを承知した。 真夜中の神社の階段は危険。二人は夜明け前に静かに源之丞を担ぎ下ろした。 神社の下に来ると、トメが村の者に頼み、古い人力車があった。これに源之丞を乗せた村人達は今度は渡良瀬川にやってきた。 「文子さん。もう一度確認するが、あんたの実家は巴波川の泉橋にあるんだね」 「そうです。でもこの川は続いているんですか?」 「ああ。源は動かせないし、今はそれしかない。さあ、足元に気をつけてくだされ」 「私は大丈夫です。源様を落とさないように」 すでに意識朦朧の源之丞。彼を乗せた小型舟の船頭はいつも町まで荷物を運んでいるベテラン。村人が心配そうに手を降る朝靄の中、足利の村から三人は隣町へ向かった。 渋滞のない川。遠回りであるが、文子が驚くほど二階堂病院のそばに降り立った。そこから文子は実家に帰ってきた。 「お父様!文子です」 病院の受付。これ無視して文子は父がいる医局にやってきた。この日は外科の診察が少なかった毅。部屋に入ってきた娘に驚いた。 「お前……今までどこに行っておったのだ」 「今はそんなことを言っていられないの!お願い、源様を助けて」 涙目の汚れた娘。腕を引く待合室には重篤な男が床に寝ていた。 「文子。これはどうした」 「毒蛇よ。ヤマカガシって言っていたわ。蛇はそこよ」 清吉がカゴに入れていた蛇の亡骸。毅は確かにヤマガラシと認めた。 「話は向こうで聞く。おい、急患だ。部屋に運べ」 外科医の顔に戻った毅。源之丞を担架に乗せ治療室へと運んでいった。文子は説明しようと付き添っていった。 毅の適切な治療にて。源之丞の命は救われた。 ◇◇◇ 源之丞の病室には清吉が一緒に入り、横で寝ていた。その間、文子は父親と今までの話をしていた。 祖母の話で家出をしたこと。祖母の手紙の大森神社を頼ったこと。その神社で優しくしてもらっていたと打ち明けた。 家にいた時の文子。色白でどこか病弱であった。しかし、今は薄汚れているが、健康的で体も強くなっていた。話を聴きながら彼はそんなことを思っていた。 「話はわかった。しかしだね。金のことだ。あれは母さんが病院の金を使い込んでいたと聞いている」 「お婆様が?信じられません」 「そうか?お前は知っていて、持ち逃げしたのではないか」 疑心暗鬼の毅。娘をじっと見た。文子は悲しい涙を流した。 「……お父様は。私をそんな風に思っていたんですか」 ハラハラ流す涙。これを信じたい毅。しかし照代の言葉が頭を回っていた。 「とにかく。お前は逃げたんだ。そう思われても仕方がないだろう」 文子。着物の胸から祖母から預かった通帳と印鑑を取り出し、父に渡した。 「私には不要です。お父様にお返しします」 「……そもそもお前のものではない。私が相続するものだ」 「はい」 文子は床に座り、父に土下座をした。 「申し訳ありませんでした……どうか、源様には、何も言わず村に帰してあげてください」 「もちろんだ。だがお前はここでしばらく謹慎だ」 「はい……お父様。文子はもう、それでいいです」 顔をあげた娘。悲しい涙。毅はその顔を見れずにいた。 「落葉」完
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