さよなら大好きな人

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さよなら大好きな人

「源様。お話があるのです」 「何じゃ」 二階堂病院のベッド。元気になった源之丞。顔にはちゃんと狐面をしていた。 付き添いの清吉が見守っていた。 ……文子。しっかり。こうするしかないのよ。 文子は冷たく言い放った。 「文子は神社に戻りません」 「何じゃと」 びっくり顔の源之丞。文子は続けた。 「やっぱり。ここがいいです。何でもあるし」 話を察した清吉。思わず背を向けていた。事情を知らぬ源之丞。文子に迫った。 「そなたは。あんなボロ屋でも良いともうしたではないか」 「忘れてくださいませ。源様。どうぞお引き取りを」 「おい?お前」 全てを察知した清吉。源之丞を抱き上げた。 「源様。帰りましょう。さあ」 「離せ!爺。やい。お前」 源之丞。面のまま。文子に向かった。文子は泣くのを必死で堪えた。 「なあ。本当か。お前は俺が嫌いになったのか」 ……ああ。源様。私はなんということを。 何と切ない声。こんな声を聞いて立っているのが精一杯である。狐面の下。見えなくても彼の顔がわかる。愛しい彼は、悲しい顔である これに背を向けた文子。涙を堪えて必死に叫んだ。 「そ、そうよ。あなたなんか嫌いよ。顔も見たくないわ!」 やっとそう言った文子。病室を出て行った。しばらく動かなかった源之丞、黙って清吉と帰っていった。 そして病院の玄関を出ていった彼の背中。文子は涙でカーテンの隙間からそっと見ていた。 「よくやったじゃない」 背中の声。嬉しそうに文子の肩を叩いた。文子はこれを払った。 「もうこれでいいですか」 「さあ?それはあなた次第よ」 照代は文子を病院の精神病患者の個室に連れてきた。 「何度も言うけど。あなたは病院のお金の使い込みの罪に問われているから。まあ、大した罪じゃないと思うけど。よろしく認めてちょうだいね」 「警察が調べればわかると思いますが」 「あなたが認めればそれで終わりよ!さあ、入りなさい!逃げようたってそうはできないから」 「……」 逃げる場所など、どこにあるのだろうか。それに逃げても、そこには幸せはもうない。幸せは自分で壊してしまったのだから。 文子には源之丞の悲しみを感じ、普通ではいられなかった。 ……源様。ごめんなさい。私のせいで、辛い目に。ああ、私はなんて言うことを。 手紙を持ち、安易に彼を頼ってせいで、こんなにも源之丞を傷つけてしまった。 素直で純情。粗暴であるが優しい人。誰よりも自分を思ってくれた人。そんな彼を好きになったばかりに。こんなにも傷つけてしまった。 ……もう、思い残すことはないわ。私の幸せは、もう、無くなってしまった。 格子の窓から外を見つめるの文子はこの日から口を聞かず食も取らず。心は無になっていった。 ◇◇◇ 「源様。さあ。帰ってきましたぞ」 「ああ。一人にしてくれ」 神社に帰ってきた源之丞。まずは囲炉裏に座った。そこにはいるはずの娘はいなかった。 ……くそ!どうしてだ!あんなにここが良いと、申しておったのに。 あまりの悔しさ。彼は刀を持ち出し庭に出た、そして庭中の木々を片っ端に切っていった。 ……ずっと一緒にいると。この俺の胸の中が一番と。言っていたのは嘘か?! 「この!この」 思い出すのは彼女のことばかり。泣き顔、笑顔。寝ている顔。怒っている顔。刀を振るっても振るっても。それは消えることはなかった。 同志、仲間、家族、友人。どれも彼にはいなかった。だからわからなかった。文子がどんなに愛しく、大切で、愛していたかを。 彼の耳には文子の声。彼の手には文子の温もり。あの時の甘い口付けが残っていた。 忘れようにも染み付いて離れない彼女の匂い。こんなにも愛していたと。源之丞はやっと気がついた。 「うわああ」 絶叫し狂いそう。どうすれば忘れられるのだろう。必死に山奥を走り回った。まるで獣のように。死ぬまで疲れたいと走り回った。 山奥に入った源之丞。姿を消して一週間。やっと神社に戻ってきた。 またもや寂れてしまった八雲神社に清吉とイネが待っていた。 「やっと戻った」 「まずは何か食べられよ」 「ふん」 風呂も入っていない汚れた姿。やつれた様子。二人は悲しみで見るだけだった。この二人、しばらく源之丞を案じ、顔を見にやってきた。 そして十日ほど経ち、清吉は村人を通じ電報を受け取った。血相を変えてイネと一緒に源之丞の元に走ってきた。 「源ちゃん。お文ちゃんが大変なんだよ!」 「知らぬ。その話を致すな」 いじけている源之丞。ここでイネは彼の面をサッと取った。 「返せ!」 「あのね。話を聞きなよ!文ちゃんが」 ここで源之丞。刀を抜き、イネに向けた。その前は真っ赤。彼の怒りと悔しさと悲しみの色。まだ彼女を思っている証。イネはこれに息を呑んだ。 「その名を言うな!お前でも許さんぞ」 震える手。源之丞の気持ちを誰よりも知る友人イネ。彼のため。文子のため。決意を新たに叫んだ。 「ばか源!あの文ちゃんが、本気でお前を嫌いになったと思っているの!」 「黙れ」 「あんなに優しくて。お前と仲良くここいたんだ。それは全部、お前のためだよ!いい加減に目を覚ませ」 この時。清吉が電報を読み上げた。 「『フミ、キトク』とありますが、源様。どうしますか」 この冷静な声。源之丞、動きを止めた。 「危篤とは?あれは元気であったはずだぞ」 源之丞。震える手で刀を下ろした。イネはその刀を取り上げた。清吉は静かに諭した。 「……源様。これからあの病院に電話をしましょう」 この足で三人は電話がある家にやってきた。その途中、イネが源之丞にもわかるように文子の事情をした。 「そうか。あれは家出をしたのに。俺を連れて行ったので。家を出してもらえぬのだな」 「やっとわかったかい?でも文ちゃんは、帰れないとわかって。源を病院に連れて行ったんだよ。それだけ、源を助けたかったってことさ」 「……では、なぜあんな意地悪を申したのだ」 清吉は首を傾げた。 「もしかしたら。源様を襲った蛇男が関係しているかもしれません。あの男は文子様に一緒に来るように言っていたようなので。文子様は二度と源様に 蛇男が来ないように、関係を切りたかったのかもですな」 源之丞はふと噛まれた腕を見た。 「蛇男め。今度あったら八つ裂きにしてくれるわ」 事情を飲み込んだ源之丞。イネも清吉もホッとしてきた。 「源。それでね。あの病院には足利出身の看護婦さんがいてね。こうして電報で文子ちゃんのことを教えてくれたんだよ」 やってきたのは大地主の家の電話。代表で受話器を持ったイネは二階堂病院に勤務の看護婦を電話で別の用事で澄まして呼び出した。 「もしもし?加代さん?私、イネだよ」 『イネちゃん?懐かしい?!っていうか!大変なのよ!文子様は病棟に閉じ込められていて。あの日から表に出ていなかったのよ』 「あの日って。源が退院した日のこと?そして?どうして危篤なの」 イネの質問。受話器には源之丞も耳を当てていた。電話の向こうの看護婦の加代、早口で話した。 『それがね。一昨日、病棟から出されたの。私、見たんだけど、びっくり。痩せちゃったのよ。文子様はあの日以来、何も食べてないんですって。今はお父様の毅先生が必死に栄養注射してるけど、……あ、誰か来た?もしもし!会うなら今よ。じゃあね』 そう言って電話は切られた。シーンとなった。 「どうする源ちゃん」 「……」 「源様。ここは行かねば、一生後悔しますぞ」 「……ああ。参る」 おおと二人と電話を貸してくれた地主の旦那は目を輝かせた。この時、地主の母親の老婆は手をパンと叩いた。 「おい、源之丞。その娘さんに結婚を申し込め」 「何だと?」 老婆の意見。皆驚いた。 「何を言うのじゃ。お前はこの村一番、元禄時代から続く由緒ある神社の神官じゃ。医者の娘に遜色などない。臆するな。堂々と申し込め」 ここで地主の息子が口を挟んだ。 「しかし母さん。そんなことを言っても。相手は二階堂病院の娘さんだぞ?結納金とかその、金がかかるぞ。源には無いだろう」 すると老婆の目がカッと開いた。 「お前はそんな弱腰だからダメなんじゃ!金などそんなもの。後からどうとでもなる!源よ。早く行け。死なせても良いのか」 「婆婆」 老婆は生き生きと指示を出し始めた。 「清吉。こいつに神官の格好をさせろ。トメに言って、髭も髪も整えよ」 「そうですね。磨けば男前です」 源之丞、びっくりして部屋中の人を見た。 「そしてイネ」 「はい」 「これから申すものを、村から集めてまいれ。金は私がいくらでも出す」 「なぜだ。婆婆。どうしてそこまで」 源之丞の言葉。老婆は真顔を向けた。 「わしの孫娘は心の病で口を聞かぬのじゃが。この前、腕をムカデに刺されてな、あの娘が優しくしてくれたと初めて口を開いたのじゃ。これは金には変えられぬ。お前だけではない、我が村にあの娘が必要じゃ」 「……わかった」 源之丞はそう言って出て行った。そして神社に行き、出かける支度をした。 婆婆様の指示。日頃源之丞に世話になっている村人、文子にも恩があると言い無償で彼に品を差し出した。 イネと清吉も伝助も。彼のために必死に支度をした。 そして翌朝。一行は船に乗り、二階堂病院を目指した。 ◇◇◇ 「おい。文子。しっかりいたせ」 「お父様……文子のことは放っておいて」 「なぜだ。なぜそこまでして。あんな男を慕うのだ」 家の金を盗んだ娘。しかしそれを戻して男を助けてくれと言ってきた。毅はまだ全て信じられなかった。今わかっていること。それは、文子が食べ物を食べず死のうとしていることだった。 栄養注射をしている。が文子は死に向かっている。本人の気力がない以上、どんな薬も効かない状況だった。 娘を追い込んだのは自分。父親の毅はどうすれば良いか目の前が真っ暗になっていた。 「あなた。どうですか」 「だめだ……点滴も効かぬ」 絶望の夫。照代は赤い服で彼を慰めていた。 「大丈夫よ。きっと良くなります……文子は罪を悔いているんですよ」 その時。病室にいきなり一郎が入ってきた。背後には次郎と見慣れぬ人が数人いた。 「何だ?お前」 「一郎。お前、どうして。あ、次郎まで」 二人の兄弟。瀕死の姉のベッドにやってきた。 「父さん……この人達は警察で、この女の人は内偵でうちの病院の算盤係をしていたんだ……姉さんの金は、病院の金じゃないよ」 「経理が自白したんだ。俺たちが使った金は、母さんが病院から使い込んだ金だったんだよ」 「お、お前達、何を言うんだよ?」 狼狽える照代。背後の警察は手帳を見せた。 「失礼します。二階堂照代さんですね。製薬会社の鈴木と名乗る男をご存知ですね」 「それが。何か」 「殺人の容疑が出ています。そのことで、詳しい話を聞かせてください」 真っ青の照代。そんな母を無視し、兄弟はベッドのやつれて青ざめた姉を見つめた。 「父さん。姉さんの金は、やっぱりお婆さまが残したものだったよ。お婆様は前から言っていたんだ。俺たちは男だから、資産があるけど、姉さんにはお金が行かないから、可哀想だって」 「俺も聞いていた……ああ、姉さん。こんなに痩せてしまって」 一郎、次郎の悲しい顔。照代は驚いていた。 「どうして何だい?お前達、文子なんか、嫌っていたじゃないか」 一郎は涙目で母を睨んだ。 「母さんが仕事で忙しい時、姉さんはいつだって優しくそばにいてくれた!俺たちが意地悪しても、姉さんは、甘んじて受けてくれていたんだ」 「俺だってそうだ……姉さんは頭が良くて。俺なんか何をやってもだめなのに。いつも優しくしてくれたよ……そんな姉さんが、金を盗んで逃げるなんてないだろう」 文子の手をそれぞれ握り寄り添う弟達。毅は照代を見つめていた。 「どういうことだ?確かに二人には散財したと聞いているが、それはお前が用意したはずだ。それが病院の金なのか」 「……それは」 この話。次郎が切った。 「父さん。それよりも姉さんだよ。栄養注射は効かないのかい」 「姉さん……どうか。食べてくれよ」 姉を思う兄弟。青ざめた姉を見ていた。胸を痛めていた毅。背後には化粧の妻がいた。 「あの、私はその……」 「出て行きなさい。お前の顔など見たくない。警察の方。その女をお願いします」 文子の病室から照代を追い出した毅。そのドアから看護婦が入ってきた。 「恐れ入ります。先生。面会の希望の方々です」 「文子に面会?無理だ、断ってくれ」 「で、ですが」 すると。スッと子供が入ってきた。着物姿の小僧。烏帽子をかぶっていた。 「失礼、仕る《つかまつる》。足利の八雲神社。神官の八雲源之丞がお目通しを願っておりまする……ささ、どうぞ」 毅の返事もないまま、ドアから白装束の神主が入ってきた。
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