2616人が本棚に入れています
本棚に追加
「おい。なんだこの文は!」
日暮れのバス停。寂しそうに泣いていた文子。目の前の男。和服に狐の面。一本下駄の着物姿。突然現れた男。文子は目を見開いた。
「すいません。私、祖母に言われ、その文を」
……若い娘か。泣いていたのか。ここで。
胸が締め付けられた男。それでも娘に想いをぶつけた。
「今更なんなのだ。この俺にどうしろと言うのだ」
夏の夜風。和服姿の一本下駄。顔は狐の面。興奮して怒る男。文子は怖くなった。
……とても怒っているわ。やっぱり、不躾だったのね。
文子は立ち上がり、頭を下げた。
「突然で申し訳ありませんでした。私、亡くなった祖母に、それを持っていくように言われて」
泣いていた目。寂しい様子。彼の方こそ動揺していた。
……爺の申す通り、訳ありか。しかし、俺の屋敷など。
どうすれば良いのか。彼もわからない。そんな彼に文子は涙目で答えた。
「でも。もういいです。明日、ここを出るので」
夜更けの灯り、バス停のベンチ。夏の夜風が二人にひゅうと吹いた。
風呂敷ひとつの娘。狐の面はじっとをそれを見た。
「お前。ないのか行き場が」
直球。文子は思わず動揺した。
「で、でも。今夜はここで足ります。すいません。ご迷惑をかけて」
若い品の良い娘。どこか憂いを帯びていた。こんな場所で良いと話す彼女。そんなはずがないことはさすがにわかっている男。苛立ちのまま、仁王立ちをしていた。
……この娘御では熊には勝てぬ……くそ。なぜ、俺がこんな事を……
人と関わるのが嫌な男。しかし。娘が事件に巻き込まれる方が面倒だと判断した。
「……来い。一晩だけだ」
「え?でも」
狐面の男は文子の手首を掴んだ。彼女の手は細い手だった。
「ここは熊が出る」
「え」
「食われるぞ」
「い、嫌です、それは」
面で不明だが、文子には彼が笑ったような気がした。
「荷物はそれか」
「はい」
男はむんずとそれを持ってくれた。そして二人で夜の土の道を歩いた。
なぜか手を繋いだままの狐男。その足の速さ、文子はとうとう根を上げた。
「すいません。もっとゆっくり」
「ああ。そうか」
彼はパッと手を離した。そして先を歩き出した。先ほどよりも暗い道。彼は慣れた様子で進むが、文子はよく見えなかった。
しかし、彼はどんどん進む。文子は声をかけた。
「すいません。待って下さい」
足の遅い娘。彼はもう待てなかった。
「きゃあ」
彼は文子をおぶった。そしてスイスイと境内を進んでいった。
その力強さと身の軽さ。文子は驚いていた。
……なんて逞しいのでしょう。
あっという間に二人は神社に着いた。
ここで降りた文子。彼はスタスタと玄関を開け入っていった。何も言われぬ文子。おずおずと中についていった。母屋の居間、その部屋の中央には囲炉裏があり火が入っていた。
「失礼します」
「ああ、娘さん。どうぞ、こちらへ」
そこにいた爺。使用人の清吉と言った。
「旦那様は奥の部屋です。気にせず今夜はここでお過ごし下さい」
「あの。清吉さんは、ここの神社の人ですか?」
白髪の年寄りは、農民の装い。囲炉裏の火の前で、優しく微笑んだ。
「私は通いの使用人です。ここには旦那様しかいません」
「先ほどの方ですね」
文子は彼がいるという奥座敷の襖を見ていた。
「ええ。旦那様は理由が合って、人には会いません。なのであなたも奥の部屋には行かないように」
「はい」
そう言って老人がかき混ぜる鍋。それは美味しそうな汁だった。
「貴女様の部屋は、あの離れの部屋です。雨漏りがしますが、今夜は平気でしょう」
「良いのですか?私、ご主人様に挨拶をしたいのですが」
清吉は首を横に振った。
「言ったでしょう。誰にも会わないと。さあ、これを食べて、お休みくだされ」
彼はそう笑顔で言うと、台所で何やら支度をし、本当に帰っていった。
囲炉裏の部屋はシーンとした。
……勝手に食べろと言われても。旦那様よりも先にいただくわけにはいかないわ。
椀と箸は二人分。おそらく彼も食べていない夕食。文子は思い切って彼の部屋に声をかけた。
「あの、旦那様。私が先にいただくわけには参りません。私は今夜は結構ですので。こちらにどうぞ」
返事のない様子。だが、想いは伝えた。文子は頭を下げて襖に礼をした。
そして蝋燭を片手に清吉に言われた部屋にやってきた。
……確かに古い部屋。でもお掃除をしてあるわ。
天井からは星が見える様子。しかし、布団が敷かれていた。
この部屋は廊下を曲がった先。そっと障子を開くと先程の囲炉裏の部屋が障子越しに影が見えた。
囲炉裏の火に揺れる姿。彼が食事をしているのが見えた。
……よかった。
障子を閉めた文子。安堵するとともに明日のことを思った。祖母の手紙があったが、頼りにするのは図々しいことだった。
……明日。お礼を言って。そして出ていこう。
決意を新たにした文子。四十九日の法要後の、この決行。知らぬ村、知らぬ神社。逃げるように歩いた一日で空腹。そのあまりの疲れで倒れるように寝てしまった。
◇◇◇
翌朝。彼は離れの部屋の娘を心配していた。
……なぜ晩飯を食わぬのだ。あまりに粗末で口に合わぬと申すのか。
青白い顔の痩せた娘。背負った時のか細さ。彼はイライラしていた。
あまりの心配。起きて来ない娘。面をつけた彼。彼女の部屋の前をウロウロ
した後、とうとう彼女の部屋の襖をそっと開けた。
……なぜ、布団で寝ておらぬのだ?
なぜか畳で寝ていた娘。男はその顔を見た。額に汗をかいていた。異常な汗。
そっと手を置くと熱があった。
……くそ!何でこんなことに。
だが気がつくと無意識に彼女を持ち上げそっと布団に下ろしていた。その身は軽いが、熱かった。この動き、娘は目を覚ました。
彼の狐の面に、もう驚かなかった。
「すいません?今、起きます……」
彼女はそう言って本当に体を起こそうとしたが、よろめいた。男は受け止めた。
「ごめんなさい」
「寝てろ」
「でも。そう言うわけには」
必死の娘。どうやら本気で起きようとしていた。男は彼女を腕に抱えた。
「そのままでは道倒れだ。お前は俺に葬式を出させる気か」
「そ、そんなつもりじゃ」
顔が赤い娘。息も絶え絶えである。意地悪な口の彼、それでも優しく娘を布団に下ろした。娘はめそめそ泣き出した。
「申し訳ありません。私……いきなり来て、ご面倒をかけてしまって」
「……」
……この娘。目を離すと本当に出ていくやも知れぬ。
困った彼は部屋から出ていった。そして清吉に事情を伝えた。今度は清吉が部屋にやってきた。
「旦那様から聞きました。どうぞ、おやすみ下さい」
「でも」
「旦那様は、あの手紙を読みました。先祖の御恩がありますので。どうぞ寝て下さい」
「……」
返事をする前に。文子は寝てしまった。それだけ彼女は疲れていた。
◇◇◇
囲炉裏の部屋。面を外した彼は看病してきた爺を待っていた。
「どうだ?まだ寝ておるか」
「はい。相当熱がありますね。お疲れではないですか」
「人の家にやってきて。寝込むとは。全く失礼な娘だ」
しかし心配している様子。清吉は彼の文句を無視し、部屋で用意をした。
「汗をかいてますので。奥様の着物を出しておきますね。それと庭でドクダミ草を採って」
「ドクダミだな。それは俺がやる」
彼はそう言って庭へスッと出ていった。清吉はその背を微笑ましく見ていた。
この神社の孫、源之丞。彼は一人でこの神社に住んでいた。
誰も寄り付かぬ孤独な彼。そんな彼の人間的な気持ちの芽生え。爺は目を細めていた。
一『壊れた家』完
最初のコメントを投稿しよう!