三 八雲神社

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……どうしよう。 日は西に傾き始めた。このままでは暗くなる。歩き疲れた文子はひとまず岩に腰掛けた。そして冷静に考えた。 この神社は山の中腹にある。神社の階段は山の西側である。今、日が沈みかけているということは、太陽を追いかければ西方面に出られるということだ。 ……大丈夫よ。文子。落ち着いて。 これに希望を持った文子。西へ西へと森の中を歩き出した。着物の素足。草履の足。胸には李を抱えていた。 「爺。あれはどうした」 ……いない。おかしい。 文子がいない母屋。源之丞、慌てて爺に助けを求めた。 「森にご一緒ではなかったのですか」 「先に帰したのだが、どこにもおらぬ」 神社に戻ってきた源之丞。彼にとってはこの山は庭。しかし、不慣れな文子にとっては樹海。それに気付かず源之丞は境内をうろうろしていた。これに爺が声を掛けた。 「旦那様。森で迷っているではないですか」 「何?そうか。迷子か」 しまったと源之丞は頭を抱えた。 「爺!今から迎えにいくぞ」 「どこにですか?もう日暮れですぞ」 見上げても夕暮れにカラスが飛ぶだけ。源之丞は叫び出した。 「あれが泣いておる!あれは泣き虫なのだ」 文子を心配し爺の服を掴む源之丞。爺も眉を顰めた。夜になれば危険であった。 「源様。笛を吹いてみましょう」 「笛?俺の笛か」 「そうです。それで呼ぶのです」 「心得た」 彼は着物の脇から横笛を取り出した。そして境内の前の岩の上に立った。 その音色。山に奏でる風の調べ。優しく心地よく、文子の耳まで届いた。 それはまるで愛しい娘への愛の言葉のような、優しく甘い音色。そばで聞いていた清吉は目を細め、庭にて木々を燃やしていた。 その頃。文子はようやく気がついた。 「誰の笛かしら……こっちの方角。きっと神社かな。あ、あった!」 見えたのは神社の白煙。文子は思い切って彼を呼んだ。 「源様ー。源様ーー……って。やっぱり無理かな」 暗い道。足場の悪い木が茂る森。文子は必死に煙が見える方へ歩みを進めた。その時、ガサガサと音がした。 ……え?もしかして熊?ど、どうしよう? 疲れ切った文子の思考。もう目の前が真っ暗になった。その時、なぜか背後から声がした。 「おい」 「きゃあああ!?」 「お前……何をしておるのだ」 突然現れた狐面の源之丞。文子は恐怖から解放され思わず腰を抜かした。 「なんだ?」 「……真っ暗で……帰れないかと」 泣き出す娘。思わず源之丞が手を差し出すと、彼の首に手を回し抱きついてきた。源之丞、どうして良いかわからなかった。 「わ、わかった。帰ろう」 「はい……」 半ベソの文子。疲れ切っていた。源之丞はまたしても彼女を背負い、森を抜けてきた。 「着いたぞ。もう泣くな」 「はい……いつもすいません」 玄関前で降ろしたもらった文子。源之丞は文子のその足が傷だらけと知った。 「お前。足」 木々や草で()ったのか。文子の足は血が出ていた。 「洗えば、平気ですよ」 気にしていない様子の文子。源之丞は彼女の気持ちが全くわからなかった。 ……俺のせいなのに。なぜ怒らぬのだ。 森に置き去りにしたのは自分。なのに文子は怒らず、何事もなかったように清吉と一緒に夕食の支度を始めていた。 そして夕食となった。この夜、なぜか源之丞が部屋から出て来なかった。 「どうしましょう」 「放っておけば良いのです。では、私はこれで」 帰り道が暗くなるため清吉は帰っていった。支度ができた囲炉裏の前。しかし肝心の源之丞は部屋から出てこない。文子は声をかけた。 「旦那様。お支度ができました」 「お前が先に食え。俺は後で良い!」 ……そんなわけには行かないのに。 居候の身でありながら、この家の主人よりも先に食べるなどという事は文子にはできない。しばらく待ったが、源之丞は出て来なかった。 そこで文子はまた声をかけた。 「私は居候です。先にいただく事などできません。今夜はこのまま休ませてもらいます。おやすみなさいませ」 そう言って襖に頭を下げた文子。静かに居間を後にした。そして離れの自室に向かっていた。すると背後から声がした。 「おい!お前」 「……源様」 「なぜだ。なぜ怒らぬのだ」 狐面の彼。ツカツカと文子に詰め寄った。 「怒るって?何をですか」 「俺のせいで迷子になったのであろう!もっと俺に怒れ!俺のせいしろ」 「……」 ……もしかして。責任を感じているのかしら。 彼はまだ怒っていた。 「それに足!痛いんだろう?痛いと言え!」 「源様」 「俺は苦しい……俺はどうすれば良いのだ」 弱々しい彼の姿。文子はそっと彼の手を掴んだ。 「源様は悪くありません。文子を探してくれたではありませんか」 「……居ないからな」 彼はそっと握り返した。 「それに。お花畑も綺麗な笛を聞かせてくれたではありませんか。あれでわかったんですよ」 「そうか、綺麗か」 「はい。また聞かせてください」 「わかった」 少し元気になった源之丞。ほっとした文子。しかし、彼はスッと文子の足を指した。 「足」 「少し痛いだけです」 「……一緒に飯が食えるか?それとも痛くてもう寝るのか」 ……こんなに心配しているなんて。 文子は首を横に振った。 「旦那様が一緒なら、痛くないです。一緒に食べましょう」 「ああ」 こうして機嫌の治った源之丞、文子と一緒に囲炉裏の前にやってきた。 食べる時だけ面を外す彼。文子は見ないふりをしていた。そしてお腹いっぱい食べて早々に部屋に入っていった。文子も早く床に着いた。 屋根の隙間から見える星の光。それを見ながら文子、涙で滲んできた。 ……お婆様。文子は最初不安でしたが、源様はとても優しいです。これから頑張るから。見守っていてね。 流れる涙。最初は亡き祖母と己の境遇で悲しい色であったが、寝付く頃には源の優しさで、文子の涙は嬉しさで輝いていた。 三話『八雲神社』完
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