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……どうしよう。
日は西に傾き始めた。このままでは暗くなる。歩き疲れた文子はひとまず岩に腰掛けた。そして冷静に考えた。
この神社は山の中腹にある。神社の階段は山の西側である。今、日が沈みかけているということは、太陽を追いかければ西方面に出られるということだ。
……大丈夫よ。文子。落ち着いて。
これに希望を持った文子。西へ西へと森の中を歩き出した。着物の素足。草履の足。胸には李を抱えていた。
「爺。あれはどうした」
……いない。おかしい。
文子がいない母屋。源之丞、慌てて爺に助けを求めた。
「森にご一緒ではなかったのですか」
「先に帰したのだが、どこにもおらぬ」
神社に戻ってきた源之丞。彼にとってはこの山は庭。しかし、不慣れな文子にとっては樹海。それに気付かず源之丞は境内をうろうろしていた。これに爺が声を掛けた。
「旦那様。森で迷っているではないですか」
「何?そうか。迷子か」
しまったと源之丞は頭を抱えた。
「爺!今から迎えにいくぞ」
「どこにですか?もう日暮れですぞ」
見上げても夕暮れにカラスが飛ぶだけ。源之丞は叫び出した。
「あれが泣いておる!あれは泣き虫なのだ」
文子を心配し爺の服を掴む源之丞。爺も眉を顰めた。夜になれば危険であった。
「源様。笛を吹いてみましょう」
「笛?俺の笛か」
「そうです。それで呼ぶのです」
「心得た」
彼は着物の脇から横笛を取り出した。そして境内の前の岩の上に立った。
その音色。山に奏でる風の調べ。優しく心地よく、文子の耳まで届いた。
それはまるで愛しい娘への愛の言葉のような、優しく甘い音色。そばで聞いていた清吉は目を細め、庭にて木々を燃やしていた。
その頃。文子はようやく気がついた。
「誰の笛かしら……こっちの方角。きっと神社かな。あ、あった!」
見えたのは神社の白煙。文子は思い切って彼を呼んだ。
「源様ー。源様ーー……って。やっぱり無理かな」
暗い道。足場の悪い木が茂る森。文子は必死に煙が見える方へ歩みを進めた。その時、ガサガサと音がした。
……え?もしかして熊?ど、どうしよう?
疲れ切った文子の思考。もう目の前が真っ暗になった。その時、なぜか背後から声がした。
「おい」
「きゃあああ!?」
「お前……何をしておるのだ」
突然現れた狐面の源之丞。文子は恐怖から解放され思わず腰を抜かした。
「なんだ?」
「……真っ暗で……帰れないかと」
泣き出す娘。思わず源之丞が手を差し出すと、彼の首に手を回し抱きついてきた。源之丞、どうして良いかわからなかった。
「わ、わかった。帰ろう」
「はい……」
半ベソの文子。疲れ切っていた。源之丞はまたしても彼女を背負い、森を抜けてきた。
「着いたぞ。もう泣くな」
「はい……いつもすいません」
玄関前で降ろしたもらった文子。源之丞は文子のその足が傷だらけと知った。
「お前。足」
木々や草で剃ったのか。文子の足は血が出ていた。
「洗えば、平気ですよ」
気にしていない様子の文子。源之丞は彼女の気持ちが全くわからなかった。
……俺のせいなのに。なぜ怒らぬのだ。
森に置き去りにしたのは自分。なのに文子は怒らず、何事もなかったように清吉と一緒に夕食の支度を始めていた。
そして夕食となった。この夜、なぜか源之丞が部屋から出て来なかった。
「どうしましょう」
「放っておけば良いのです。では、私はこれで」
帰り道が暗くなるため清吉は帰っていった。支度ができた囲炉裏の前。しかし肝心の源之丞は部屋から出てこない。文子は声をかけた。
「旦那様。お支度ができました」
「お前が先に食え。俺は後で良い!」
……そんなわけには行かないのに。
居候の身でありながら、この家の主人よりも先に食べるなどという事は文子にはできない。しばらく待ったが、源之丞は出て来なかった。
そこで文子はまた声をかけた。
「私は居候です。先にいただく事などできません。今夜はこのまま休ませてもらいます。おやすみなさいませ」
そう言って襖に頭を下げた文子。静かに居間を後にした。そして離れの自室に向かっていた。すると背後から声がした。
「おい!お前」
「……源様」
「なぜだ。なぜ怒らぬのだ」
狐面の彼。ツカツカと文子に詰め寄った。
「怒るって?何をですか」
「俺のせいで迷子になったのであろう!もっと俺に怒れ!俺のせいしろ」
「……」
……もしかして。責任を感じているのかしら。
彼はまだ怒っていた。
「それに足!痛いんだろう?痛いと言え!」
「源様」
「俺は苦しい……俺はどうすれば良いのだ」
弱々しい彼の姿。文子はそっと彼の手を掴んだ。
「源様は悪くありません。文子を探してくれたではありませんか」
「……居ないからな」
彼はそっと握り返した。
「それに。お花畑も綺麗な笛を聞かせてくれたではありませんか。あれでわかったんですよ」
「そうか、綺麗か」
「はい。また聞かせてください」
「わかった」
少し元気になった源之丞。ほっとした文子。しかし、彼はスッと文子の足を指した。
「足」
「少し痛いだけです」
「……一緒に飯が食えるか?それとも痛くてもう寝るのか」
……こんなに心配しているなんて。
文子は首を横に振った。
「旦那様が一緒なら、痛くないです。一緒に食べましょう」
「ああ」
こうして機嫌の治った源之丞、文子と一緒に囲炉裏の前にやってきた。
食べる時だけ面を外す彼。文子は見ないふりをしていた。そしてお腹いっぱい食べて早々に部屋に入っていった。文子も早く床に着いた。
屋根の隙間から見える星の光。それを見ながら文子、涙で滲んできた。
……お婆様。文子は最初不安でしたが、源様はとても優しいです。これから頑張るから。見守っていてね。
流れる涙。最初は亡き祖母と己の境遇で悲しい色であったが、寝付く頃には源の優しさで、文子の涙は嬉しさで輝いていた。
三話『八雲神社』完
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