思慕

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 はてもない旅の汗くさいこと  隣に座る詩人がそう口にしたので、思わずそちらに目を向けそうになって、やめる。窓から車内に入り込んでくる風が詩人の長い髪をよそよそと揺らす。まだ本調子ではないエアコンから出る(どちらかと言えば)冷たい風。詩人は缶ビールを開けて、飲む。汗を搔きながら飲む。その右隣の運転席の、直射日光の当たるハンドル。握った手のひらに、じんわりと滲む、汗。  アクセルを踏むと車はのそのそとスピードを上げる。回転する車輪が道路のアスファルトを踏みつけながら走る。運転席に座るのは久しぶりで、詩人も助手席に座るのは久しぶりだった。少し埃臭い車内の空気が段々と外の新鮮なものと入れ替わる。詩人は缶ビールを片手に窓の外を流れる風景をじっとりと見ている。光の差す車内。隣の詩人は楽しそうに鼻歌を歌い始める。照っているのはまだ朝日で、旅は始まったばかりだ。向かうべき目的地は一つに決まっているのにその鼻歌は上機嫌に勢いを増す。車の中は彼女の鼻歌と、エアコンの稼働し始める音が心地の良い不調和な音を奏でている。  夏が来た。今年も。よせばいいのに彼女はまた元気だ。  前の車が静かに左折していったので、目の前に真っすぐな道が開けて見えた。青々とした晴れ空がいやに眩しい。詩人の飲んでいる缶はまだ冷たい。握ったハンドルはようやく手に馴染んできて、確かめるようにアクセルを踏み込んだ。詩人は左側の車窓を流れる景色を見る。景色は絶えず後ろに流れていくのに、車の中にいる詩人はその行く末を見続けることはできない。車はどんよりとしたスピードでその体を前に進める。空が青く広がっているのにどうして人は前を向いて生きていかなければならないのだろうと思う。 「はてのない旅ってのは、きっと始めるものじゃないんだろうね」 彼女と過ごした最初の夏に、彼女は独り言にしては寂し気にそう言った。鎌倉から小さな電車に乗り換えて行った長谷寺駅で、たくさんの観光客が歩いていく。潮風に髪をなびかせながら、首筋にじんわりと汗を掻く。周りには腕を組んで歩く恋人たちや、手を繋いで歩く親子。笑い合いながら夏の日を過ごす、暑ささえ愛しくなってしまうような日に、彼女はそう言った。「きっと、いつの間にか始まっているものなんだろうね」  高速道路に乗る。車は加速する。詩人は窓を閉めたので車内は徐々にエアコンの不躾な空気で満ちてゆく。追い越し車線のトラックに追い抜かれる。大きな車体と、音。詩人はビールの缶をもう一口飲んだ。喉を通過する液体の冷たさに彼女は目を瞑る。彼女はもう、ほとんど壊れかかっていると思った。太陽はぐんぐんと高度を上げて、車も負けじと速度を増していく。車を一つ右の車線に移動させて、緑の乗用車を追い抜く。助手席に子供を座らせた、詩人と同じくらいの年齢の女性が運転している。その車はもう既に、遥か後方になっている。  鎌倉の古いお寺の一つ一つが、夏の色めきを持って自立している。彼女は報国寺の背の高い竹藪を見上げながら写真を撮る。小さな手から零れ落ちそうな、見るからに重たいカメラ。夏の風景を切り取るようにファインダーに収める。風がそよぐ。いそいそと、彼女の髪を揺らす。 「汗かいちゃった」彼女は嬉々として生きている。彼女ほど愛しく一日を過ごす女性を知らない。かしゃっ、という無機質な音にさえ、つい口元を緩ませる彼女の姿を見失いたくなくて、しっかりと見つめている。そうしているうちに彼女はこちらにカメラのレンズを向けた。 「このまま、二人で生きていきたいね」南風に乗った彼女の声に思わず頷きたくなって、やめる。  高速道路は漠然とした景色を静かに後方に追いやってゆく。太陽はいつでも満開に照っているのに、時間はいつも一方通行だ。詩人はもう汗の一つも搔いていない。ハンドルは少し物憂げな生暖かさを持って体を支配する。車が前方に進むのと同じ速度で、自分たちも大人になれたらいいのに。車窓を流れるあらゆる景色を過去のものにして、この生ぬるい体だけを未来に運んで行って欲しいと思う。詩人はそっとビールを置いた。その中身が残っているのかどうかは、彼女の他には誰一人として分からない。もしかすると、彼女自身も分からないのかもしれない。旅はまだたった、初めの数歩を踏み出したばかりだと言うのに。  由比ヶ浜に続く小さな道。まっすぐ伸びた道から青さの異なる空と海が差す。彼女の他に歩く人はおらず、その一歩後ろから彼女の背中を見守る。 「多度津の景色みたいだよ」  彼女は少しだけ震える声でそう言った。多度津とは彼女の生まれ育った町で、彼女が彼女らしさを積み上げてきた町で、彼女と擦り切れてしまうほど疎遠になった彼女の家族が住む町だ。目の前に広がる海は実際には間違いなく由比ヶ浜だけれど、それは彼女にとって重要ではない。事実はいつだって現実には敵わない。彼女の髪は潮風に触れられて、思わず泣いてしまいそうになる。 「俺が付いていくよ。だからいつかさ」  その言葉に肩を叩かれたように、彼女はこちらを振り返った。由比ヶ浜と多度津の入り混じった海が彼女の後ろできらきらと揺れている。彼女の額に滲む汗。握った掌に染みる汗。彼女の瞳に移る自分だけは、貫き通そうと決心した。  詩人はもうビールを飲むことを止めていて、微笑みかたを忘れている。ビールはまだ残っているだろうか。或いは彼女の舌にはまだ、色褪せた苦みが消えずに残っているだろうか。後戻りはできないのに、前に進むことも出来ない事の残酷さよ。車はまだ目的地には程遠くて、夏はまだ終わらずにいる。太陽はまだ疲れ知らずで、エアコンは酷く涼しい風を吹かせる。 「ごめん。やっぱりだめそう」 *  サービスエリアの隅で、彼女は静かに嘔吐する。唾と涙を垂らしながら嗚咽を漏らす彼女の背中をさすってあげる。神奈川県鎌倉市から香川県多度津町。電車と飛行機を乗り継げば車で向かうよりも遥かに短い時間で辿り着く。そうしたら彼女は今度こそこの旅を終えられたかもしれない。車窓を流れる景色に身を削られることも、県境を過ぎるたびに胃酸を逆流させることもなくてすむかもしれない。車で向かったはてのない旅は、彼女の志半ばで終わろうとしている。彼女はまだ泣いている。延々と、泣いている。 「また今度にしようか」  彼女は小さく、首を横に振る。 「何度だっていいよ。付いていくよ」  彼女は何度も、首を横に振る。彼女の痛みを想像することはできても、寄り添う事は出来ても、汲み取って消してあげることは出来ないのだと思う。彼女は頑なに車で目的地に向かおうとする。それは彼女なりの勇気なのかもしれない。或いは、弱さなのかもしれない。  はてもない旅の汗くさいこと  彼女の頬にそっと触れてあげる。この汗の一粒でさえも、幸福であればいいのにと思う。
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