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ガラガラガラ……と、重いドアの開く音。次いで、むんっと漂う古書の香り。
黒部書店の閉架書庫に、このとき俺は初めて足を踏み入れた。
「うっわ……」
見渡す限りの書棚に所狭しと並べられた古書、古書、古書——。思わず声を漏らす俺に、宇奈月が苦笑する。
「すごいですよね、これ。店長のお父さんが古書店をやってたみたいで、その名残らしいです」
へえー、と相槌をうちつつ、なるほどと得心する。
あの本好きの店長の父親なら、古書店を営んでいたとしてもなんら不思議ではない。店長は本の形をしていればなんでもいいと自ら豪語するミスター無節操だ。珍しい本があると聞けばどこへだろうと足を運んで手に入れようとし、今だって店を放って海外へと飛んでいる。
「それで、ここにあるんですか?」
「はい、たぶん……。今日、店長に頼まれて途中からこの閉架書庫の整理をしてたんです」
「ああ、だから途中から姿が見えなかったんですね」
「おっ! 江口さん、わたしがいないことに気付いてくれてたんですねえ。嬉しいなあ〜」
「いや、そりゃ気付くでしょう……」
前々から思っていたが、宇奈月はどうにも掴みどころが無い人物だ。こちらから話しかけておいてなんだが、普段仕事上のやりとりしかしないような相手に、どうしてこんなにもフランクに話しかけられるのだろう。
……いや、彼女は今を時めく現役JD。ただ単に、俺のコミュニケーション能力に難があるだけか。
そう結論づけて自分が自分でいたたまれなくなり、それを払拭するように言った。
「じゃあ、探しましょうか」
「はい。じゃあ、私はこっちを」
書棚を挟んで、床と、棚や本の隙間なんかを主に探していく。
そうしてしばらく二人で黙々と鍵を探していると、彼女がふいに「そういえば」と口を開いた。
「〈魔法使いと騎士の娘〉——わたし、あれ大好きでしたよ」
(……はあ!?)
突然のことに、心臓が跳ねた。
そして俺は、彼女が偶然、ただの戯れに、雑談としてその名を口に出しただけであることに一縷の望みをかけてみるが。
「へ、へえー。どんな本なんです?」
「やだなー、もう。自分の本なんだから、自分が一番良く知ってるじゃないですか」
ね、シエロ先生。と、宇奈月は茶目っ気たっぷりに言った。……もう、確定だった。つまり、だ。
彼女、宇奈月あえかは、俺、江口耕介が作家の〈シエロ〉であることを知っている——。
「い、いつから……」
そう掠れる声を出す俺に、彼女は「うーん」と少し悩んだ素振りを見せて、
「最初からですね」
と答えた。
「なんで——!」
思わず叫んでいた。そして彼女は、今度はさらっと答えた。
「ええっと、顔ですね!」
「顔!? そんなはず——」
そこまで言って、(いや——)と、忘れかけていた——正確には忘れようとしていた——ある記憶を嫌々ながら掘り起こす。
俺は売れっ子だった時代も、メディア露出はほとんどしてこなかった。だが、全く無かったというわけでもない。そう、俺は一度だけ、作家としてその顔を読者の前に見せたことがあった。デビュー作が刊行されるにあたって、俺は一度だけサイン会を行っていたのだ。そしてそのサイン会で持ち前のコミュニケーション能力の低さが露呈し、来てくれた人とろくに喋ることもできずばっちりトラウマになって、それ以来サイン会も、ましてやメディアへの露出も強く拒否し続けてきた。
そんな俺の素顔を彼女が知っているということは。
「まさか、あのとき——?」
俺の問いに、
「そうですよお〜」
と、彼女は事も無げに言う。
「いや〜、あのときの江口さん、顔真っ赤にしてろくに目も会わせてくれなかったですし、覚えてなくても仕方ないと思いますよ〜」
「やめてーーっ!?」
俺はトラウマに塩を塗込められ、悶絶しながら頭を抱えた。
それをみて彼女は苦笑し、
「だから、ここに江口さんがバイトとして入ってきたとき、めちゃくちゃびっくりしてたんですよ。顔、かわってないな〜って。でそのあと、あ、江口だからシエロなんだ〜、安直〜って。
それで、いつか江口さんの方から気付いてくれるかな~とか、少しは思ってたんですけどねえ〜」
と、少し唇を尖らせる。かと思えば、
「今日も、やっと気付いてくれたのかなって期待してたんですけど、そういうわけじゃないっぽいですし。一向に気付いてくれる様子も無いので、もう自分から言っちゃいましたよ〜。こういうの、本当は男の子の方から気付かないと〜」
と、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「ご、ごめんなさい……?」
「いや〜、この罪はラーメン一杯じゃあ返しきれないですよ? せめてマシマシじゃないと〜」
そのいかにも大学生っぽい返しに、俺もついに苦笑する。
それに彼女は、「あはは、冗談ですよ〜」と、和やかに笑う。
その笑顔が開けた窓から差し込む夕日に映えて、俺は思わず顔を背けてしまう。大丈夫だろうか。俺、今、どんな顔してるんだろう。表情のコロコロ変わる年下の彼女に、俺は翻弄されっぱなしだった。
そして、背けたその視線の先に、壁際の書棚の下で夕日を赤く反射する何かと、その近くに落ちていた一冊の本を見つけた。
取り上げたそれは、やはり鍵だった。そして鍵とともに落ちていた本は、
(無題……?)
とりあえず、「はい、これ」鍵を彼女に渡す。
「わ〜! ありがとうございます〜! ……って、なんですかその本?」
「鍵の近くに落ちてたんだけど、宇奈月さんのじゃないですよね?」
「違いますね〜」
「ふうん……じゃあやっぱり、ここのものなのかな」
だが、なんとなく。
確かに古びてはいるものの、その本には他の本とは違う何かがあるように思えてならなかった。……が、そんなそこはかとない違和感も、
「ですかね〜。でも、私が片付けてたとき、そんなのあったかなあ……」と下唇に人差し指をやる宇奈月女史をみてどこかへ消え去っていった。無意識なのだろうが、だからこそあざとい。
「ま、まあ、とりあえず目的の物は見つかったわけだし、目的達成ですね」
「ですね〜。いや〜、本当に、ありがとうございました、シエロせーんせ!」
「いや、それ、仕事中とか本当にやめてくださいね……」
「え〜どうしようかな〜」
などといいつつ、俺と彼女は閉架書庫から出る。しばらく窓のない書庫の中にいたので時間の感覚がなくなっていたが、外ではすでに夕日も落ちかけ、そろそろ夜の帳が降りようとしていた。
そして彼女ははっとして腕時計を確認し、
「いけない、もうこんな時間……。ごめんなさい、わたし、急いで帰らなくちゃいけなくて……」
「ん、大丈夫ですよ。閉架書庫の鍵は俺が返しておきます」
「ほんと何から何まですみません〜」
と彼女は頭を下げ、「あ、あと」と言って、
「これ、私のラインのIDです。よければ連絡くださいねえ〜」
と、俺の手に、胸ポケットに差していたマジックでラインIDを流麗な書体で書いて「ではまたバイトで〜! それから、次からは敬語じゃなくていいですから〜!」と手を振りながら去っていく。
去り際の彼女の頬が平時よりも赤いように見えたのは、夕日だけのせいではあるまい。……というのが俺のただの穿ちすぎなのかどうか、俺はその答えの決して出ない問いを、しばし呆然と立ち尽くして本気で思案した——。
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