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適当に描いた魔法陣なんですけど!?
(魔方陣――)
よくよくみれば、そもそもその本は普通の紙でできてすらいなかった。
(これは……パピルス……?)
そう理解して――
(……まあ、だからなんだっていうんだ)
俺はその本を、腰ほどまでの高さの書棚の上に置いた。
パピルスで作られた本に魔方陣が描いてあるからって、まさか本当に魔法が使えるわけでもあるまい。
なぜならファンタジーはあくまで非現実であり、そんな非現実はこの現実ではあり得ないのだから。
***
東久留米市は東京都内ではあるが郊外に位置し、所謂「都会」という感じは全くない。田舎の風情も多分に垣間見える土地であり、夏には小川で子供たちがザリガニをとって遊んでいる光景さえみられる。
だからというわけではないが、俺はバイト先へはなんとなく歩きで通っている。そのおかげで、平時であればのどかな町の営みをゆっくりと見られていい。
だが、その日の帰路の足取りは重かった。身体的疲労ではない。精神的問題だ。
ようやく家に着いて、無駄に広い家のリビングに設置しているソファに腰を下ろした頃には、俺は額に嫌な汗を浮かべていた。
そして今日、どうしてバイト後まっすぐ家に帰らず、柄にもなくバイト仲間の困りごとに首を突っ込んだりしたのか……その理由を、自身のことながらようやく理解していた。
ローテーブルにぽつねんと配置されたノートPCの電源ボタンを押す。スリープモードで待機させているので、一瞬で立ち上がる。そして、メーラーを開いて、受信BOXを確認する。
【未読:1件】
【件名:設定・プロット、確認しました】
やはり、来ていた――。
このメールを見たくないという気持ちが潜在意識に働いて、俺をまっすぐ家に帰さなかったのだ。
……だが、見ないわけにはいかない。恐る恐る開く。
◇ ◇ ◇
【本文】
お疲れ様です。総曲輪です。
頂戴した設定とプロット、確認しました。
結論から申し上げますと、ボツです。
新作として上申することはできません。
ご自身でもお気付きのこととは存じながら、改めてお伝えします。
先日口頭でも申し上げた通り、今のシエロ先生の作品からは、デビュー当時にあった生き生きとしたファンタジーらしさがなくなってしまっています。
もちろん、文章や構成、展開のさせ方といった技術はデビュー当時と比べてもそん色なく、むしろ向上していると言って差し支えないでしょう。ですが、誤解を恐れず申し上げるなら、先生よりもそれらに秀でた作家なんて、デビューしていない人の中にだって掃いて捨てるほどいます。
では、その作家たちを差し置いて先生が商業作家としてデビューできたのは何故か。それはひとえに、あのむせ返るような、生き生きとしたファンタジーらしさにあったと、私はそう思います。というか、私が審査員特別賞として選んだのだから実際そうなのです。
私がまだ現役作家だった頃、最期に引き受けた審査委員。
あの時、先生の作品を初めて読んだ時に感じた、ファンタジーと言う名の奔流に押し流されるかのような感覚。めちゃくちゃでも、暴力的なまでの生々しさ、美しさ……。それらが、今ではすっかり鳴りを潜めてしまっています。そのことが、私にはどうしても我慢なりません。そしてそれはきっと、読者の皆さんも同じことです。
あんなことを言ったのです。そして、今も厳しいことを書いています。
もう、先生は私に会いたくはないかもしれないけれど……。
私にできることならばなんでもします。
今一度、ファンタジー作家としてのご自身の武器を、見つめなおしてみてください。ご自身の強みを、思い出してください。
あらゆる人を魅了した感性を、どうか取り戻してください。
◇ ◇ ◇
最後まで目を通し、ため息をつく。
――ああ、やっぱり。
また俺は、あの人の期待に応えることができなかった。
そう思うと、目頭が熱くなってくる。
総曲輪庵。
俺の担当編集者であり、俺をデビューさせてくれた、元ファンタジーノベル作家でもある。
作家に元もなにもないかもしれないが、彼女自身が『私はもう絶対に書かないから、元でいいんですよ』と言っているから、そうなのだろう。彼女は、まだ若いにもかかわらず、人気絶頂の中、20代最後の年に審査委員を引き受けたのを最後に、作家としての活動をやめた。そして、自身が最も世話になった出版社である四十物書房の編集者となった。
理由はわからないが、俺のデビューが決まって、指摘された部分を二日で改稿して再度提出した俺の作品を読んで、彼女が『やっぱり、辞めてよかった』と小さくつぶやいたのを、俺は今でも鮮明に覚えている。
それがどういう意味だったのかは、分からない。
ただ——これは勝手な俺の自意識過剰な勘違い、思い過ごしかもしれないが——彼女は、当時の俺のような新人の作品を一番に読みたいから、俺のような才能を導いていきたいから、作家を辞めて編集者になったのではないかと思っている。
であるならば。彼女の作家としての最後の忘れ形見とも言える俺が、こんな体たらくでは絶対にだめだ。俺の人生だ、俺がどうなろうとそれは俺の責任。だけど。彼女に、あの時の彼女の選択を間違いだったと思わせてはいけない。それだけは、決して。
そして俺は、ほんの一時間ほど前のことを思い出していた。
パピルスでできた本に、魔方陣が書き連ねられていた。それを俺は、だからどうしたと、魔法などと言う非現実が、この現実にあるはずがないと、一笑に付した。
――いつからだ?
いつから俺は、あんな面白そうなものを見つけても、心を動かさなくなった?
パピルスだぞ? 魔方陣だぞ?
ファンタジー作家であれば、童心にかえって興味を示して然るべきではなかったか。いつからか俺は、ファンタジーをあくまで非現実的なものとして、ただの作品を構成するための道具としてしか見なくなっていたのではないか。
すくなくともかつての俺ならば、目を輝かせてあの本に興味をそそられないなんてことはなかったはずだ。
(……こういう、ところからだよな)
俺は、黒の油性ペンを持って寝室へ行き、それを真っ白な寝室の壁に当てた。
そして——、大きな円を描く。
その円の中に——先ほどちらと見た本の内容を可能な限り思い出しながら——幾何学的な模様を描いていった。ひたすら無心に、時間を忘れるくらい、いつまでも……
俺は魔方陣を描き続けた。
もはや描く隙間など無くなった頃には、気付けば深夜の二時をまわっていた。
いったい何時間、描き続けていたのだろう。
俺は魔方陣の中心に最後の正四角形を描いて、その魔方陣を俯瞰した。
円は意外と綺麗に描けてはいるが、その中身は到底、正しい魔方陣とは言えないだろう。幾何学どころか、もはや模様としての秩序すら保てていない。
だけど俺は、えもいえぬ達成感と心地よさを覚えていた。
——もちろん、こんなことでファンタジー作家としての感性がもう一度蘇ってくれるとは思っていないし、あまつさえこの魔法陣によって何かが起きるとも思っていない。だが、
(この魔方陣から、再出発だ――)
そう。これは、俺の覚悟の証しだ。
俺はこの魔方陣に、絶対にファンタジー作家として再起してやろうと、改めて誓った。そして、宇奈月あえかに俺の新作を面白かったと言わせ、総曲輪庵には自身の選択が間違いではなかったと思わせてやる――!
そう決意して、俺はベッドに倒れこんだ。
するとすぐに、強烈な睡魔が訪れた。
まるで舞台の緞帳が降りるかのように、あるいは異世界へと誘われるように。
その日は久しぶりにぐっすりと、気持ちよく眠れた。
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