2人が本棚に入れています
本棚に追加
第二章 家族とその暮らし
第一話 松山家の人々
その当時(昭和三十年代初頭)は、前述の通りまだまだ戦後の復興半ばで、一部大企業に勤務する会社員や公務員、地元の有力者以外は、ほとんどが貧困家庭で、松山家もご多聞に漏れず、『今日・明日の飯が、ちゃんと食べられるかどうか?』の心配が先ず一番に来るほどの貧乏であった。
一家の主、松山清八(せいはち)は明治四十四年生まれで、高等小学校卒業後名古屋市中川区松重(まつしげ)町にある〝松山材木店〟に丁稚奉公に入ったのだが、その家の長女、松山(慶子(けいこ)に見初められ、当時としてはごく希な〝恋愛結婚〟で、養子縁組となったのだ。旧姓は〝久野(くの)〟といった。後年の話であるが、清八は「わしゃ、養子だでよ~。」が口癖で、慶子は「爺ちゃんは昔、ゲーリー・クーパーみたいな好い男でねえ。」と、自慢げに語る、結構仲の好い夫婦であった。
そんな仲良し夫婦に子供は五人。(六人誕生するが、一人は一歳を待たずに病気で早逝。)
長女は清美(きよみ)。昭和十一年生まれで、その年、父・清八は二十四歳、慶子十九歳の若さであった。
後年、圭司達兄弟姉妹は、叔母(慶子の妹)に聞いてその事実を知ることになるのだが、どうやらこの長女・清美の妊娠が判明しての、養子縁組だったらしい。
叔母は、母からは口止めされていたのだが、子供達も成長して孫も沢山出来て『もう、時効。』と言うことで話してくれたのだ。
それを聞いたのは、圭司が40歳を超えた、父・清八の葬儀の時であった。
今で言うところの〝できちゃった結婚〟。慶子の両親も従う他はなかったのであろう。
次女は日菜子(ひなこ)昭和十五年生まれ。三女の美乃梨(みのり)は昭和十八年生まれだ。
三女・美乃梨誕生の一年後の、昭和十九年十二月から終戦まで、六十回以上にも及ぶ米軍大空襲により〝松山材木店〟は跡形もなく焼失し、彼女らの祖父母もその犠牲になった。文字通り〝命からがら〟〝着の身、着のまま〟で、名古屋の中心地から田舎町『鳴海(なるみ)』へ、落ち延びたといった体であった。
昭和二十二年に長男・裕之(ひろゆき)が誕生するが、一歳の誕生日を待たずに肺炎で早逝。
その時はまだ金銭的に余裕があったらしく、当時の治療薬としては高価なペニシリンを、医師の薦めで大量投与し、長男を死なせてしまう。
一歳未満の乳児にペニシリン大量投与とは、現在なら医療事故に相当しかねない事である。清八は後々までこの件で、自責の念に苦しむことになる。
たまに酒を飲んで酔って帰った清八から、その愚痴をよく聞いた覚えがある。
「あのヤブがペニシリンで裕之を殺しやがった。奴は〝河合又五郎〟だでよう!」
この治療に当たった河合医院の姓を〝荒木又右衛門・鍵谷の辻の仇討ち〟の敵役になぞらえて、かの医師を『河合又五郎(〝また殺し〟の洒落)』と呼んで恨み続けたのだ。
その清八の最期が、後に町一番の大病院となる、河合医院改め鳴海病院の一室であったことは、何とも皮肉である。
昭和二十五年次男・圭司、二十七年三男・龍男誕生。
こんな風にして松山家は形成されていった。
圭司が生まれた時、長女清美は十四歳であった。圭司を背負って母の手助けをしている際に、弟の妊娠を聞いた時、母親に言ったそうだ。
「全く! 恥ずかしいで、もうええ加減にしてちょうせ‼」
何となく、解かる気はするエピソードではある。
最初のコメントを投稿しよう!