青春の鼓動 ~僕たちの昭和~  第一巻

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第二話  貧乏暮らし そんな家族七人が、六畳二間平屋建ての長屋で暮らしていた。 兎に角、食べるにしても寝るにしても〝大騒ぎ〟で、貧しい暮らしではあったが、『♪狭いながらも楽しい我が家~♪』の歌を地でいったような家庭であった。 ここからは、貧乏エピソードのオンパレードになる。 落語の『寿限無』ではなないが、〝食う・寝るところに住むところ〟の話から入って行こう。 松山家は、三軒続きの長屋の真ん中に位置し、東隣がヤコちゃんの栗田家、西隣がきょうこちゃんの光崎家である。 勿論〝借家〟で、家賃に関する記憶は不確かだが、その見た目から言っても、当時の最低レベル、恐らく月二~三百円程度であったと思われる。 その家賃が滞納の連続で、大家からいつも文句を言われて、本当に申し訳なさそうに謝っていた母の姿を、圭司は幼心に覚えている。 そんな訳で、大家の不興を買い、家の修復もままならず、雨漏りは当たり前で、建て付けが悪くて玄関の引き戸を開けるのに、いつもひと苦労する。文字通りの〝あばら家〟である。 その玄関の上り口に、二畳ほどの廊下の様な板の間があり、その奥が台所。左側に六畳二間が縦に配置され、更にその奥、左が便所、右が風呂場といった間取りである。 その長屋の裏の、狭い庭に物干し台が置かれ、空いた場所で、それぞれの家ごとに若干の野菜や草花を栽培していた。 生活用水は、長屋共同の井戸から汲み上げた水を各家庭の水瓶に溜め置きし、柄杓で掬って飲み水や洗い物に使用するという、まるで時代劇で見られるような光景が、当たり前に繰り広げられていたのだ。この水廻りの仕事で最も大変だったのは、風呂の水汲みである。 この作業は、子供達総出で行うのが常であった。当時の貧しい家庭では、今の様に毎日風呂があるということはなく、たまの休みの夕方に、父が薪割りして風呂焚きの準備をし、母が夕餉の支度をして、その間に子供たちが水を運んで風呂桶に入れる。という段取りであった。 共同の井戸でバケツに汲み上げた水を、自宅の風呂まで運んで入れるのだが、結構距離がある上に、風呂桶の高さもあって、非力な女子供にとっては思いのほかの重労働である。まだ小さくて風呂桶に水を入れることが出来ない弟二人が、井戸のポンプを押して水を汲み上げ、姉達が交替で運ぶ作業が繰り返されるのである。姉達は、この作業を知り合い(特に男子生徒)に見られるのが嫌だったようで、同級生が通り掛ると、隠れたり作業の順番を入れ替わったりの大騒ぎであった。 圭司が小学三年の昭和三十四年の伊勢湾台風の時には、水道が通っていたような記憶があるので、この作業は一番下の姉・美乃梨が十六歳になる迄続いたことになる。 思春期真っ只中の、乙女の恥じらいが垣間見えるエピソードではある。 続いては〝食う、寝るところ〟の内の『食』に付いて。 兎に角、お金がなくて、今日明日のご飯が食べられるかどうか?の心配が、先ず一番にやって来る、と言う暮らしぶり。少しお金が入ると、圭司は近所のお米屋さんに米一升を買いに行かされた。一升128円であった。 未だ幼かったので、当時のシステムは把握していなかったが、普通の家庭は、お米をそんな風に細かい単位で買うことはなかったようで、そのお使いの途中で近所の河合病院次男で同級生の河合博や、その他の同級生に偶然会った時言われて、初めて知った事実であった。 河合家や他の家では、お米屋さんが届けてくれるらしい。 そんな訳で、少しの米を七人家族で分けて食べるのだから、まともな白飯は出てくるはずもなく、良くて芋粥か、松山家では〝だんご汁〟と呼ばれる、いわゆる〝すいとん〟である。 裏の山では、蕨、ゼンマイ、野原で土筆等の野草を摘み、近くの小川へ行けば、いつでもバケツ一杯程のシジミが採れたので、それを毎日のおかずにするという生活だ。 その他には、近所に住む〝田んぼの加藤さん〟と呼ばれるお百姓さんが、畑の肥料用に定期的に便所の汲み取りに来て、その代金替りに置いていく薩摩芋も貴重な食糧。秋の稲の刈入れ時期には、それが藁の時もあり、それで焚火をして焼き芋を作り、藁を焼いた灰は、火鉢や炬燵の炭床にしたものであった。 今では全く見られなくなった、日本の伝統的風習、立派な〝エコ文化〟であろう。 〝寝るところ〟に付いては、推して知るべしで、そんな狭い家に七人暮らし、プライバシーなんてものは存在するはずもなく、六畳二間に四組の布団。玄関側の部屋には父と圭司、母と弟の二組。台所側では次女と三女が同じ布団に寝て、いつも「あんたの脚が邪魔だ。」とか「寝相が悪い。」とかで揉めていた。そして長女だけが布団一枚を一人占めで寝ていて、次女と三女はいつも羨ましがって、「何で、姉ちゃんだけ?」と文句を言っていた。 尤もその頃には、一番上の姉は既に就職して家計を助けていたので、誰も文句を言えた義理では無いのだが・・・。 長女と圭司とは十四歳、直ぐ上の三女でも七歳もの歳の差で、下の弟二人は全くのガキ扱い。 その扱いは、何年経っても変わらず、恐らく命尽きるまで継続されるのであろう。 親子・兄弟姉妹の関係とは、そんなものだ。 次は、少し切ないエピソード。その当時はまだテレビは普及していなくて、子供向けの娯楽としては、ラジオと紙芝居が主流であった。二~三日に一度、紙芝居屋のおじさんが自転車でやって来て、人寄せのデンデン太鼓をドーン!ドーン!と打ち鳴らすと、それを待ちかねていた子供達が五円玉・十円玉を握りしめて、満面の笑顔と共に駆け集って来るのだ。 子供達はその五円・十円で、練飴や煎餅等の駄菓子を買い上げ、その対価として、紙芝居屋のおじさんが自転車の荷台で、その頃人気の〝黄金バット〟や〝鞍馬天狗〟等のヒーローものを大袈裟に語り上げるのだが、それは、当時の小学生以下の子供達にとって、無くてはならない楽しみの一つであった。 ところが、その五円・十円の金が、当時の松山家には無かったのだ。子供達、と言ってもその頃松山家でそれに該当するのは、小学校低学年の圭司と龍男だけだが、幼い二人はやっぱりそれが見たくて、人込みに紛れてこっそり見ていたのだ。それをやはりこれも幼い、近所のケンちゃんやアキちゃんに「只見(ただみ)、只見!」と囃されて、泣きながら帰ったことが度々あったのだ。〝只見〟とは、お金を払わず紙芝居を見る〝無銭拝観〟の事である。 ケンちゃんやアキちゃんに悪気は無く、ただ囃し立てることが面白いことと『只見は駄目!』と言う、子供らしい〝正義感〟から出た行為だ。 そこで母・慶子は、紙芝居のデンデン太鼓の音がすると、二人を近くの池や小川、裏山に連れ出し、散歩ついでに食料になるツクシやワラビ等、野草の摘み取りで、時間潰しをして紙芝居終了を待つ、ということが常となっていた。 当事者の兄弟は、母ちゃんと一緒に遊びながら、ツクシを採ったり野イチゴを摘んで食べたりで、それはそれで結構楽しかったのであるが、母親としては、たった五円・十円の紙芝居を子供に見せられない情けなさで、やりきれない日々であった。 圭司がその話を初めて聞いたのは、中学生になってからで、酔っ払って帰宅した父・清八が、当時反抗期で父親に対して目も合わせない息子に、涙ながらにこのエピソードを聞かせ、「全部俺の不甲斐なさ。母ちゃんは何も悪ないがや。母ちゃんだけは大事にせないかんぞ!」それを聞いて圭司も大号泣。 清八も慶子も、後々その頃の話をすると、必ず涙になった。 何故、そんなに貧乏だったのか?圭司は日曜も働く父に時々職場に連れ出され、堀川と呼ばれる運河で、筏に組まれた材木に乗って働く様子を見ていたので、『あんなに一杯仕事しとるのに?』と、子供心にずっと不思議だったのだ。 どうやら、人の好い父・清八は、戦友の頼みを断り切れず借金の保証人となり、その所為で『働けど働けど、我が暮らし楽にならざり。』という状況に陥ってしまっていたようである。 但し、その戦友とはその後も付き合いは続いたようで、後々名古屋では名のある建築会社を築き上げるその友に、逆に助けられることになる。 人の好さ、誠実さも、時には報われるものである。人生、そうでなくては・・・‼
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