青春の鼓動 ~僕たちの昭和~  第一巻

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第七話  友だち先生   昭和37年、圭司は小学六年生。前年、鳴海小には大量の転校生が入って来た。 一つは九州・福岡県からで、前年迄の三井三池炭鉱労働争議の影響で転職移住して来た家族。 もう一つは、三菱重工業が圭司達の住む長屋の裏山を切り崩して造った社宅の居住者で、両方とも貧乏長屋住まいの圭司達から見れば憧れの、鉄筋コンクリート製高層住宅だ。 その為、第六学年は一組増えて、8クラスになっていた。 クラス替えで、圭司は六年七組。担任は、山口徳治(とくじ)先生である。 山口先生は、背は低いがガッチリした体形、かなりの力自慢で、子供たちに握手を求めてはその握力で掌をゴリゴリやって、相手が「イテテテテ!」となる様子を楽しんでいた。 特にクラスの大柄な子供に対してその力を見せ付ける傾向が強く、圭司を含めて、蟹江邦夫、久野正義と前述の野球仲間・阪野真人の四人がいつも被害を受けていた。 その頃の圭司は身長157㎝。山口先生とほぼ同じで、他の三人もそんなに差は無かった。その所為か、何かに付けて山口先生は、この四人を〝目の敵〟にしていたのだ。 休み時間には、いつも相撲の相手をさせられ、投げ飛ばされていた。 何とか勝とうと、あの手この手で対抗するのだが、一度も勝てなかった。 山口先生は強かった。 そんな訳でこの四人、にっくき山口先生を何とかやっつけようとしている内に、いつも一緒に行動する仲間、同志の様な関係の親友となっていった。 先生もそれは解っていて、何かと言うと四人にちょっかいを出して、かまっていた。 当時先生35~40歳くらいだったと思うが、こんな友達みたいな先生は初めてだった。 二学期に入って、小学校生活最後の秋の大運動会も終わり、少しセンチメンタルな気分になっていたある日、四人は山口先生に呼び出されて職員室にいた。 ニコニコしながら先生は、 「知っとると思うけど、来月愛知郡の小中学校対抗陸上競技大会があるんだ。」 「その大会の学校代表選手を決めんといかんのだけど、その候補選手としてお前ら四人を推薦しといたで、明日の放課後から他の候補選手と一緒に練習に入ってくれ。」 「あと一ヵ月だけど頑張れ!」そして、こうも付け加えた。 「もし、代表になって優勝したら、林屋の〝たいこ焼き〟好きなだけ食わしたるでよう!」 「先生、ウソ言ったらいかんぞ!絶対優勝するでな!」 四人は大喜び、そして大張り切りだ。林屋と言うのは、名鉄鳴海駅前にある甘味処で、小麦粉をこんがり焼いた生地の中にアンコの入った焼き菓子、関東で言うところの今川焼(当地での呼称は〝たいこ焼き〟)が大評判。行列ができるほどの人気があったのだから、子供達が喜んだのは当然だった。 翌日から約一ヵ月間、各人の適性を見極める為、走る・跳ぶ・投げるの基本練習が行われた。 体育の授業では50㍍のタイムしか計ったことが無かったが、大会では100㍍走競技なので、初めてそのタイムも計測したし、長距離走の練習もあった。  その結果、阪野真人は百メートル走、圭司は走り幅跳びとソフトボール投げの代表に選出され、蟹江邦夫と久野正義はリレーの補欠として参加することになった。 練習では阪野は100mを13秒前半、圭司のソフトボール投げは60㍍、走り幅跳びは4㍍20まで記録を伸ばし、大きな期待を背負って大会当日を迎えた。 大会は隣町の豊明中学で開催され、小学の部100メートル走の阪野は十三秒台後半の記録で3位、圭司のソフトボール投げは五十一㍍で2位、走り幅跳びに至っては、ファウルが続き、最後の三本目にどうにかあわせての3㍍80で5位、の結果であった。 普段の記録であれば優勝できたのだが、ここ一番の気持ちの弱さが出て、悔しい負けだった。 それでも、団体戦では優勝し、鳴海小・中学の団体アベック優勝となった。 おかげで、約束通り〝たいこ焼き〟のご馳走にありつくことが出来た。 林家で腹一杯の〝たいこ焼き〟。小学校生活最後の、最高に楽しい思い出となった。
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