青春の鼓動 ~僕たちの昭和~  第一巻

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第八話  秋祭り 昭和三十年代の愛知県愛知郡鳴海町。 秋の収穫の時期になるとそれぞれの地域の神社ごとに、秋祭りが執り行われていた。 その頃の鳴海小学校では、農繁期とかお祭りで、それに関係する地域の子供は早退を許されることがあり、それに当たった子供達が、「バンチョ、バンチョ‼」と叫びながら、大喜びで下校する姿が微笑ましかった。 『バンチョ』とは〝万事調子好し〟の略語で、今風に言えば『やった!』とか『シメシメ』に該当する言葉。現在も通用するかは不明だが、当時の鳴海ではよく使われていた。 地域ごととは言っても狭い町のこと、小学生は学校が終われば地域に関係なく、祭礼のある神社に集まり、祭りを楽しんでいた。 秋祭りで忘れられないのは、猩々(しょうじょう)と呼ばれる、張りぼてのでかい人形が出現して子供たちが異常に怖がっていた姿だ。小学生未満の子供は100%大泣きであった。 猩々と言うのは、中国の伝説の生き物で、猿に似ていて人の顔と手足を持ち、人の言葉を解し、酒を好み紅毛赤面。日本では、酒呑みの代名詞ともなっているらしい。 この猩々の歴史は古く、最初に文献に登場するのは江戸時代中期の宝暦7年(1757年)。 ということは、260年以上も前から伝承されているということになる。 猩々にも格付けがあり、その最上位にランクされるのが、『あたらし』『ふるばば』と呼ばれる〝神様猩々〟。その二体?(二人?)は別格で、祭礼の際には裃を着て、町一番の由緒ある神輿のすぐ後を歩く役割を与えられていた。その他にも『一銭しゃもじ』、『ぷーれん』、『じゅうばこ』等の名前の猩々が数頭いて、子供達を怖がらせていた。 どれも伝説の容姿を忠実に再現していて、大きな赤ら顔と赤毛の長髪、派手な模様の綿入れを、竹で編んだ籠の胴体に纏い、その人形は出来ていた。中に人が入るのだが、その時は胴体を頭からすっぽり被って、猩々の胸の辺りにある覗き穴から外が見える仕組みになっていて、人が被ると身の丈2㍍50以上になった。例えると、『八時だよ、全員集合‼』の、ジャンボマックスのような感じで、片手に大きなグローブの様な手形を持って子供達を追っかけ、その尻を叩いて回るのだ。 子供達はそれが嫌で逃げ回る。小さい子は、それこそ泣きながら逃げ惑うのである。 秋田の〝なまはげ〟の人形のサイズを大きくしたもの。と思ってもらえれば、何となくその雰囲気は伝わるだろうか。 但し、〝なまはげ〟の鬼の形相とは違って、その表情はいたって柔和である。 故に、その怖さは余計に際立つのかも知れない。 その頃には伝統的なものとは別に、各村落で作られた新しい猩々もあって、その中では、『キューピー』と呼ばれた、ぽっちゃりした顔つきの可愛らしい一体が印象に残っている。 小さい子供は怖がるが、小学生高学年ともなると、中に人が入っているのが判っているので、「猩々のバカやあい!」と囃し立て、わざと追いかけさせて鬼ごっこを楽しむものもいる。中にはお尻をまくってペンペンしながら「バカやあい!」とからかう子供もいる。 今も続いていると思うが、楽しいお祭りであった。 圭司たちの村落のお祭りは、毎年十月十日・十一日の二日間。 その近辺の氏神様『成海(なるみ)神社』の秋の祭礼である。 各村落の子供たちが、お神輿や獅子舞で行列を作り、成海神社まで練り歩くのだ。 お神輿とは言っても、前述の神様猩々が付くような由緒あるものではなく、町内の子供会で造った、所謂『子供神輿』である。 お神輿は男子、獅子舞は女子の受け持ちで、村落のお金持ちが作った猩々も一体参列した。 「ワッショイ!」シャン・シャン。「ワッショイ!」シャン・シャン。 「ワッショイ!」は子供たちの可愛い掛け声。〝シャン・シャン〟は鈴の音である。 各地のお祭りでよく聞くところの、ピッチの早いハイテンションの掛け声ではなくて、どちらかと言うとスローテンポで、何とも盛り上がりに欠ける掛け声だ。 成海神社までの練り歩きの途中に、この祭礼に参加している別の村落の行列に出くわすと、九分九厘の確率で喧嘩が勃発した。お祭りと言えば、欠かせないのが、この〝喧嘩〟。 特に喧嘩をしなければならないと言う決まりがあってのことではないのだが、どちらが先に行くとか、そっちがぶつかっただの、そっちが先に手を出しただの、他愛のないことに、何かと言いがかりをつけて喧嘩が始まるのだ。 毎年のことなので、いい加減反省して折り合いを付ければいいと思うのだが、これを楽しみにしている威勢のいい子供もいて、いつも村落対抗のチーム戦模様を呈してくるのだった。 喧嘩と言っても子供同志のこと、声を荒げて手を出してもせいぜいひっかき傷程度で大怪我に至ることはなく、ひとしきり騒いだところで大人が出て来て収まる。というパターンだ。 男子は粋がって前へ出たがるが、女子は『また始まったか・・・。』と、冷めた目で静観。 騒ぎが収まると『ほら、大したことなかったでしょ。』と、したり顔で再び行列に加わった。 この様な、男女のテンションの差は、大人も子供も今も昔も変わらないものなのだろう。 昭和37年。その年のお祭りで、事件は起こった。 最上級生の圭司は、近所のお金持ち、加藤さんが作った猩々を被って行列に参加した。 先頭が男子の担ぐ神輿、次に女子の六年蒔田陽子ちゃんが頭を被り、唐草模様の胴体に女子数名が摑まり鈴を鳴らしながら進む獅子舞、最後尾が圭司の猩々である。 成海神社に近付くと、例年通りのイザコザが始まった。 『始まったか。』猩々の覗き穴から様子を窺ったのだが、何だかいつもと雰囲気が違う。 行列の前の方で大声が聞こえた。大人の野太い声で 「何だ、おみゃあ。何じろじろ見とる。そんなに俺が珍しいか!」どこかで聞いた声だ。 猩々姿のまま慌てて止まっている先頭に行ってみると、同学年で隣の組の稲村進がいた。 実は彼、同級生より三年年上だが、病弱の為、入退院を繰り返し、この年六年に編入されたばかりで、本来であれば中学三年生である。体は小さいが声はもう大人だった。 症病名は分らないが何らかの障害らしく、身長は1㍍にも達していないが頭部の発達のみ著しい異形の持ち主で、それを見て〝仮分数〟と揶揄する不届き者もいたのだ。 そんな彼を、我がグループの下級生が見て、笑ったと言うのだ。 その張本人は三年生の椎野誠。父親の転勤で東京から4月に転校して来たばかりであった。 稲村の勢いに押されて、もう涙目だ。 「ぼく笑ったけど馬鹿にしてないよ。ニコってしただけだよ。」必死の弁明である。 「スーちゃん(稲村進のこと)、許してちょう。悪気は無いと言っとるで。」 圭司も、猩々を脱いで調停に入る。 「いーや、こいつは嘘ついとる。俺には判るんだ。圭ちゃんは引っ込んどれ。」 稲村進も余程腹に据えかねたらしく、頑なな態度を見せた。 これまで生きてきた中で、そんな視線は何度も感じて来たのであろう。 その度に積み重ねてきた〝我慢〟が一気に噴き出したような、そんな怒りの形相であった。 相手が東京からの転校生で、何となく気取った言葉遣いと、こ洒落た服装だったのも癪に障ったのかも知れない。今でもそうらしいが、名古屋人は東京と大阪には妙な〝ライバル意識〟或いは〝劣等感〟の様なものがあり、彼らを必要以上に意識しすぎる嫌いがあるのだ。 「許せ!」「許さん!」そんなやり取りが何回かあった後、一人の男子が口を挟んできた。 「圭ちゃん、どっちでもええがや! さっさとこの子に謝らせて前に行こまいか!」 圭司と同じクラスで、稲村進と同じ村落の・荒木忠義だ。 その頃よくやっていた、放課後の三角ベースの、草野球仲間である。 彼は普段から稲村に付き添ってよく面倒を見ていたので、進の我慢をよーく分かっていた。 「この子だって少しはスーちゃんを笑ったんだから、気持ちはどうでも謝ってもええがや。」 「たー坊(忠義のこと)こそ黙っとれ。これは俺とスーちゃんの問題だがや!」と圭司。 『カチーン』ときた忠義、「なにい!俺だってスーちゃんのことは一番分かっとるんだぞ!」 「なにを!」「この野郎!」 お祭りの高揚感と相まって興奮した二人は〝組んづ解れつ〟取っ組み合いの大喧嘩である。 稲村進と下級生・椎野誠の問題が、いつの間にか同級生・友達同士の取っ組み合いにすり替わってしまっていた。 喧嘩の発端の二人は、あんぐりと口を開けて眺めるしかなかった。 流石に年上の稲村は、二人を止めに入った。もう一人の張本人、誠は泣きじゃくるばかりだ。 元はと言えばこの喧嘩、稲村進ことスーちゃんが怒りだして始まったもので、その本人が止めに入ったのでは続ける理由もなく、間もなく収まりは付いていった。 それでもスーちゃんは、自分の為に争っている二人が嬉しくて、嬉しくて、 「圭ちゃん・たー坊、ありがとう! このことは絶対忘れんぞ!」 圭司と忠義、それにスーちゃんも併せて三人で大号泣。 下級生も含めた四人の涙の中で、小学生生活最後の秋祭りは、終焉を迎えた。 スーちゃんとたー坊そして圭司の三人はそれを機会に親友となり、卒業後鳴海中学に進む。 特に、たー坊とは同じ野球部で3・4番コンビを組むことになり、中学卒業後もチームは違うが高校・社会人と、野球の道を追い求めて行くことになる。 スーちゃんのその後も気になるところではあるが、この項では中学校卒業までは一緒だったことに留め置き、その後日談はまたの機会に譲ることとしよう。
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