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注ぎ足された酒をヴァルラムは短く礼を言ってから、再び口に含む。そして深く息を吐いた。
「これまでの中で一番良い室長だと言ってくれた。……て、手を差し出したら握ってくれた。……嬉しかった。でも、クラーラにとって私が室長という立場でしかないなら、指先に口付けをすることは許されないだろうし、細い肩を抱く権利だって無い。……そもそも上司と部下なら、どこまでの触れ合いが許されるんだ?……くそっ、考えたってわからない」
グラスを強く握りしめて、呻くヴァルラムはどこまでもイケメンだった。
しかし、口に出した台詞はイケメンとは遠くかけ離れたもの。
「……指先に口付けって……気障かよ」
「っていうか、チューすらしてないんじゃないの?あの二人」
「手を握るだけで舞い上がれるなんて、安上り……あ、まぁ初心ね、初心」
ナッツをカリカリ。クッキーをサクサク。チーズスティックをポリポリ。
良い感じに酔いが回った研究員達は、つまみを片手に勝手気ままな感想を口にする。どう贔屓目に聞いても、ヴァルラムに的確なアドバイスをする気はないようだ。
しかしヴァルラムも、無作法に乱入してきた彼らにはなから助言を乞う気は無い。
手酌で酒を煽りつつ、ぶつぶつと愚痴を吐く。
「好きって言ってくれたじゃないか。待ってるって言ってくれたじゃないか。なのに3行の手紙で終わらせるなんてあんまりだ」
「あー……振られたちゃったんだ。ご愁傷様」
「まだ、振られていない。彼女は今でも私の婚約者だ」
きっぱりと言い切るヴァルラムに、ローガが憐憫の目を向けた。
「なぁ……そういう妄想しているだけとか?─── あー......やぁー......なんでもない。なんでもない」
婚約者につれない態度をとられ続けていたって、ヴァルラムは時期公爵家当主だ。
眼光の鋭さは、なかなかのものだった。酔っぱらいの研究員を黙らす程度には。
しかし、再び溜息を吐く。先ほどより辛そうに。
そんなヴァルラムに向け、ここでゆったりと酒を呑みながら傍観に徹していたサリダンが口を開いた。
「で、坊やはクラーラをどうしたいんだ?」
「……ぼ、坊や!?」
「他に誰がいる?ヴァルラム室長?」
三十路に片足を突っ込んだ男は、青年にはまだ持ち得ない自信と貫禄を伴っており、ヴァルラムは悔しくも己が坊やであることを認めざるを得なかった。
「……どうしたいって言われても……私は彼女の意思を無理矢理曲げてどうこうするつもりは無いです」
「はっ」
ぐっと拳を握って、気持ちを吐露すれば、あろうことかサリダンに鼻で笑われてしまった。
しかも悔しいことに、サリダンのニヒルな笑いは大変様になっていた。
こんな辺鄙な場所でなければ、そして、そこそこ身だしなみを整えればさぞやモテるだろう。
いや近隣の町娘達の一人や二人、虜にしているに違いない
だからこそ普段は、よれよれの白衣に無精ひげを生やして色気を隠しているのではないかという可能性も出てきた。
是非とも、それを続けて欲しい。特にクラーラの前では。
そんなふうにヴァルラムがヤキモキした視線を思わず向けた途端、サリダンはおもむろに手を伸ばした。
「ま、ひ弱な坊っちゃんらしい発言ではあるが、勘違いのクズ発言じゃなかっただけ褒めてやるよ」
「…… それは、どうも」
ぐしゃぐしゃと髪を洗うような手つきで頭を撫でられ、ヴァルラムは不覚にも兄という存在は、こういうものなのかと思ってしまう。
「彼女……クラーラは義務付けされた、何となくの人生を吹き飛ばしてくれた恩人でもあるんだ。だから、彼女を自分と同じようながんじがらめの生き方なんかさせたくない」
「ああ、そうか。お前さんは、ちゃんと相手を思いやれる気持ちを持っているんだな。偉いぞ」
─── だから、こんなところで泣くんじゃねえぞ。
声にこそ出すことはなかったが、間違いなくそう伝わった。
「クラーラはちょっと不思議な子だ。こっちが悪意をもって無視をしたってにこにこ笑って、自分にできることを探して精一杯がんばる。ここに来たってことは相当な事情があったのに、それをおくびにも出さない」
「……無視って……大の大人が、未成年の少女に何をやってるんですか」
「ま、それは置いといて」
駄目な大人を見る目になったヴァルラムの視線を感じて、サリダンは肩を竦めた。
「最近のクラーラは……正確に言うと、あんたが来てから随分生き生きとしている」
「そうだろうか。彼女は私が来てからずっと迷惑そうな顔ばかりしている」
「ははっ。それは、あんたが特別だからだ。クラーラはここしか居られないと思っているから、俺らには絶対に甘えないし文句も言わない。でも、不満や愚痴が無い人間なんていない。…… 室長さん、酔っぱらってても言っている意味わかるだろ?」
つまりサリダンは、ヴァルラムはクラーラにとって、まだ特別な存在であることを暗に伝えたかった。
「わか……ります。でも……でも」
コトンとグラスを置いたヴァルラムは、ぎゅっと己の手を組み合わせた。
これまで他人に弱音を吐くことも、愚痴を吐くこともできなかったヴァルラムだけれど、サリダンを前にしたらもう駄目だった。
これまで抑えていた不安を堰を切ったかのように語り出す。
「……でも、辛い。いつかまた、彼女がなにも言わずに消えてしまうんじゃないかって、いつも不安なんだ」
「安心しろ。クラーラが勝手にどっか行こうとしたら、俺が引き留めてやる」
「……一度は、消えたんだ。二度目だってあるかもしれない」
「そうしたら、また捕まえろ。引っ叩かれて、二度と顔を見せるなって言われるまで気持ちを伝えれば良い」
「そんなことを許されるのだろうか」
「俺が許してやる。だが、クラーラを泣かしたら、俺はお前を許さない」
頭に乗せられていた手に力が籠り、頭部を圧迫する。サリダンが鷲掴みにしたのだ。
まるで、道を踏み外したら止めてやるよと言いたげに。
公爵家の嫡男として生まれたヴァルラムは何不自由なく育ったが、常に完璧を求められていた。
だから、間違えても良いと言ってくれたのは、生まれて初めてだった。
そして力強い言葉に背を押され、ヴァルラムは言うべきではない事まで口にしてしまう。
「どうやったらクラーラは、私の事をまた好きになってくれるんだろうか……」
ずっとずっと胸に抱えていた言葉を吐いてしまった。
ヴァルラムは、ただやり直したいのだ。何年かかっても良いから、もう一度、ララと呼びたいだけなのだ。
「やだ可愛いっ。イケメンが恋にワタワタしてるっ。……ねえ、匂い嗅いで良い?今の香り、覚えておきたいの」
「やめてくれ」
「じゃあ、その髪一房ちょうだい。色見本として使えそう。名前は……そうね、『失恋色』かしら?」
「断る。あと、まだ失恋はしていない」
きゃあきゃあと黄色い声を上げる女性研究員に対して取り繕う必要性を見失ったヴァルラムは、ぞんざいに言い放つ。
しかし研究熱心な女性二人は、手と手を取り合って更に黄色い声を上げる始末。手に負えない。
そんな中、ローガがグラスをテーブルに置き、ヴァルラムの肩を掴む。
「ま、俺は協力してやっても良いぞ。この前の寝間着の借りがあるからな」
「……本当……ですか?」
「ああ。あんたが、クラーラを奪いに来た奴じゃないっていうのがわかったし、俺はこう見えて面倒見の良い男なんだ。感謝しろ」
「ありがとうございます」
ヴァルラムが深く頭を下げた途端、すぐに「ちょっと待って」と横から声がかかる。
「あーら、私だって協力してあげるわよ」
「もちろん、私も」
なんて頼りになる人達だろう。
ついさっきまでふざけた大人としか見れなかったというのに、これほど頼もしく思えるなんて─── ヴァルラムは己の思考が信じられなかった。
しかしヴァルラムは、学生時代はクラーラとの交際を続けるため、また婚約者として認めてもらうために、ひたすら親の出すミッションをこなしてきた。
そして卒業後も、クラーラを探しこれまた婚約者として認めさせるために、全ての時間を捧げた。
そのため友人を作る暇も、誰かと酒を飲み交わす時間も、まして愚痴を吐く余裕すらなかったのだ。
ここにいる研究員達は人としてどうよ?と思う部分は多々ある。
大人として認めたくない部分もあるし、こんな大人にはなりたくないと思う反面教師にしか見えない。
けれども、頭を空っぽにして愚痴を吐ける空間を作り出してくれていることは、確かな事実だった。
「私は、皆さんに出会えたことを神に感謝する。本当にありがとう」
アルコールの力が加わり、これまでに無いほど素直な気持ちになったヴァルラムは、自然にテーブルを囲う研究者達に頭を下げた。
「やだー改まってどうしたの?可愛いっ」
「きゃー照れるぅ」
「なんかむず痒いな、おい」
すぐさま、三者三様のリアクションで部屋は賑やかになる。
その中で、不意にサリダンが窓に目を向けた。
「お、流れ星だな」
「あら」
「へー」
「そうなん?」
今日は流星群が極大を迎える日ではない。
しかし、ここは人里離れた場所。都会の喧騒も灯りもないお陰で、流れ星は珍しいものでは無い。よく見かけるものでもないが。
「坊や、願い事があるなら祈っておけ。神様だって時には気まぐれを起こすかもしれないからな」
サリダンの言葉は聞きようによっては『奇跡が起きなきゃ、クラーラとの関係はこれ以上良くならない』と受け取れる。
けれどヴァルラムは、窓に目を向け、星が流れるのを待つ。
─── 諦めかけた頃、ようやく夜空に青く光る筋が描かれた。
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