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研究施設を飛び出してすぐのところで、クラーラはよく見知った顔を見つけた。花が咲いたようにパッと笑顔になる。
クラーラに気付いた隙の無いフロックコートに身を包んだ男も、つられるように笑みを浮かべながら小走りで近付いてきた。
「ご無沙汰しております。お嬢様」
「久しぶり、ジェラルド。待たせちゃったよね。ごめんなさいっ」
「いえ、今到着したばかりでございます」
気安い口調のクラーラとは対照的に、慇懃に挨拶を交わしたのは、かつてセランネ邸で執事を勤めてくれていたジェラルド・フォンス だった。
クラーラより9つ上の28歳の彼は、背伸びをしても目を合わすことができない長身で神秘的な黒髪と紫色の瞳の持ち主だった。無論、イケメンである。
ただヴァルラムが清潔感のある爽やかイケメンに対し、ジェラルドはどちらかと言えば陰の雰囲気を纏っている。それがミステリアスであり、妙に大人っぽく見えて色っぽい。
「お仕事の途中なのに、お呼びだしして申し訳ございません。差し障りがあるようなら、日を改めて───」
「ううんっ。全然、障りない!」
心底申し訳なさそうに眉を下げるジェラルドの手をギュッと握って、クラーラは首をぶんぶんと横に振った。
「今日、会えるのをずっと楽しみにしていたの。遅くなったのは、リーチェさんとナタリーさんに捕まっちゃっただけ」
「捕まった?」
「うん、せっかくジェラルドに会うのにぼさぼさの髪なんて駄目って言われて─── ほら、見て」
ジェラルドの手を離したクラーラは、2歩後ろに下がってくるんと回る。
後頭部で一つに纏めたカプチーノ色の髪と、藍色のリボンが遅れてふわりと揺れる。
「なるほど、随分お時間がかかったでしょう」
一見、リボンで一つに括ったように見えるが、実は細かい編み込みまでされていることに気付いたジェラルドは目を細めて頷いた。
「うん。で、このリボンはリーチェさんが染めてくれたの」
リボンの端を摘まんでピロピロと揺らしながらクラーラは補足する。
これにもジェラルドは笑みを浮かべて頷いた。
「良く似合っております。それでは、お二人には何かお礼をしないといけませんね」
「んー?」
神妙な顔つきになったジェラルドに、クラーラはそっと苦笑する。
目の前にいる青年は、もう父に仕えてくれていた執事ではない。なのに、そのことをすっかり忘れてしまっているようだった。
「お礼は私がするから、大丈夫だよ」
「お嬢様がご自身で?……おやめください。そのようなことはわたくしが」
ぎょっとした顔をするジェラルドに、クラーラは意地悪く微笑んだ。
「じゃあ、香草担当のナタリーさんに、そろそろあなたの身体の匂いを嗅がせてあげてくれる?あと、染色担当のリーチェさんが、色見本を作るのにあなたの黒髪が一房欲しいって言ってたから───…… って、あはっ冗談だよ。ごめん、ジェラルド。そんな泣きそうな顔をしないで」
ジェラルドは、一度だけナタリーとリーチェと対面したことがある。
けれど美麗な彼を見た瞬間、研究熱心な二人は何かのスイッチが入ってしまった。そして、いきなりジェラルドをもみくちゃにしてしまった経緯がある。
言っておくが、ナタリーとリーチェは、ジェラルドに対して悪気は無かった。
登山家が山を見たら登りたいという思考を持っているように、美しいものに対して飽くなき探究心を持っているだけのこと。
ただ血走った目で髪を掴まれ、首筋に鼻先をくっつけられた経験は間違いなく彼の心にトラウマを植え付けてしまったことだろう。
「…… スポイトと耐熱性に優れた最新の試験管でご勘弁ください」
呻き声と共に吐き出された提案は、貧乏研究員の心を鷲掴みにするチョイスだった。
無論貧乏研究員(助手)のクラーラは、嫌と拒むことはできない。
いや有難すぎる申し出に、感謝の念を込めて踊りたくらい嬉しい。
「現物見てないけど、もうすでにみんなの喜ぶ顔が目に映っちゃうなぁー。でも良いの?実験道具は高価なのに……」
「伝手があるから、大丈夫です。こちらも無理のない範囲でご用意させていただきますので」
「そっか。安心した。でも、本当に無理は駄目だからね」
「かしこまりました、お嬢様」
にこっと笑ったジェラルドは、もういつも通りの彼だった。
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