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【根拠の無い大丈夫ほど不安なことはありません】
ジェラルドの言う通り自分は、ヴァルラムに押し倒されて激しくキスされて、挙句の果てには既成事実を作って今すぐ結婚するか、婚約破棄を撤回するか選べと迫られたのだ。
これを良からぬことと呼ばずに何と言おう。
しかも、毅然と突っぱねることが出来ずに、自分はヴァルラムの要求を呑んでしまった。苦渋の決断ではあったが、揺るぎない事実でもある。
もちろん、真顔で物騒な発言をするジェラルドにこの事件を語ることは許されない。
「お嬢様、我慢なさらないでください」
クラーラは俯いてスカートの裾をぎゅっと掴む。するとジェラルドはその手に包み込むように、優しく重ねた。
「あの男の赴任期間だけ、ここを離れるよう所長に掛け合うこともできます。その間、わたくしと一緒に王都に戻って」
「嫌だよっ」
ジェラルドの言葉を遮って、クラーラは彼の上着を強く握りしめながら大きく首を横に振る。
「私、ずっと、ここに居たいっ」
ジェラルドの手を振り払って悲痛に叫ぶクラーラは、居場所を失うことを恐れているというよりも、突然変わってしまう環境の変化に怯えている表情だった。
クラーラは父親の死によって沢山のものを失った。そして、変わってしまうことを何より恐れている。
それを間近で見て来たジェラルドは、これ以上強く訴えることができなかった。
「……わかりました」
深く息を吐いて頷いたジェラルドに、クラーラは「ごめん」と呟く。
「あのね何かあったら、連絡する。……絶対に」
「はい。そうしてください。そして、必ずお助けに参ります」
ジェラルドは己の上着の裾をぎゅっと握るクラーラを見つめる。
彼のその顔は、根負けしたような苦笑だった。
***
「じゃあね、ジェラルド。色々心配かけてごめんね。あの……気を付けて帰ってね」
「はい。お嬢様もどうかお身体に気を付けて。また伺います。スポイトと試験管は近いうちに送りますね」
「うん!待ってる」
正門からジェラルドの姿が見えなくなるまで、手を振り続けていたクラーラは研究室に戻る為くるりと身体を反転させ走り出した。
今日の研究室は、助手の髪をいじれるくらいのんびりとしている。
だからそう急いて戻る必要はないのだけれど、ゆっくり歩くことがもったいなく感じてしまう。これはもう職業病なのだ。
パタパタと軽快な足音を響かせながら、流れていく景色を目で追うとこなくクラーラは走り続ける。
けれど、総務棟と実験棟を繋ぐ渡り廊下を駆け抜けようとした時、ゆっくりと歩く人影にぶつかりそうになってしまった。
「あ、失礼しました」
幸い正面衝突は免れたが、運悪くぶつかりそうになった相手はこのまま無視してはいけない人物。
なので、クラーラは足を止め頭をさげる。
すぐさまこれ以上ないほど不機嫌な声が降ってきた。
「また、あなたなの?本当に素行が悪いわね」
「……申し訳ありません」
侮蔑の籠った視線と言葉に耐え切れず、クラーラは更に頭の角度を深くした。
まるで生徒指導の先生のようなことを言ったこの人物の名は、カロリーナ・ルドルファ─── マノア植物研究所の所長サリガ・ルドルファの一人娘だった。
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