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「へ?新しい室長?」
実験棟の用務員から研究室の鍵を受け取ったクラーラは、きょとんとした。
「ああ、今日から赴任されるそうで、もう室長部屋にいらっしゃるよ。さっき会ったし」
「嘘!?」
「ははっ、嘘じゃないよ。それに5日前に、掲示板に人事異動の連絡票が張り出されていたじゃないか。……ああ、その顔は見てないんだね。いいさ、そんなの。普段はろくでもない通知しか張り出されないしね。経費削減、経費削減、経費削減、そればっかりだ───っと、話題が逸れてしまったが、驚くなかれ。その室長さん、儂にもちゃんと挨拶してくれたよ。若くてなかなかのイケメンさんだった。ま、つまりは良い人だったよ……」
「そっか。ひとまずは良い人なんだ」
ふむ、と頷いたクラーラに髭もじゃの用務員ことカールは、パチリと茶目っ気のあるウィンクを返した。
「そういうわけだから、就業時間前だけれど挨拶はしといた方がいいよ。何事も最初が肝心だからね」
「はい!そうします」
カールの親切な忠告にクラーラは素直にうなずき、ぺこりと頭を下げた。
***
王都から馬車で一晩駆けても辿り着けない辺境にあるマノア植物研究所は、かつてサナトリウムだった建物を改築しており、敷地内の殆どが白を基調としている。
また山間にあるここは川の源流が近くにあり、栽培不可能といわれている貴重な植物を数多く育てることができている。
そのおかげかどうかはわからないが、ここに所属する研究員は皆有能で、数々の論文が学会で認められており、植物研究に励んでいる者なら、その名を知らない者はいない。
しかし研究員達の知名度が高いのは、功績を褒め称えるものではない。
ここマノア植物研究所は、奇人変人が集う場所。そして行き場を失った訳アリ人が集う場所。
通称『掃き溜め研究所』と呼ばれていたりもする。
従って、資金面ではいつも火の車。
修繕費など皆無の状態が何年も続いているせいで実験棟はかなり古く、補修もままならない状態なので、廊下を歩く度にギシギシと音が鳴る。
ここで働き始めた当初、まるで悲鳴を上げているかのような廊下に、床が抜けるんじゃないかと、おっかなびっくりしていた。
けれど、木造建築とは意外に丈夫だということを身をもって知った今は、遠慮なく音を響かせることができる。
それに床が抜けたところでここは1階だ。死ぬことは無い。
マノア植物研究所は少数精鋭と言えば聞こえは良いが、万年人手不足状態だから修理するのはこの自分。責任の取りようはわかっているので、やっぱり問題無い。
というわけでクラーラはパタパタと廊下を走る。
小鹿のようなしなやかな動きにあわせて膝下のワンピースの裾がも靡き、しなやかなで白い足を晒す。
(備品を発注する時は嫌な顔をしないで、ちゃんと毎日定刻に出勤してくれて、つまらないことでぶつぶつ文句を言わない頼れる室長だと良いなー。あと、動物好きだとかなり嬉しい!)
歴代の室長は、諸事情でここに来ただけあってお世辞にも良い上司とは言えなかった。そして判を押したように、全員動物が苦手だった。
しかし今回の室長は、生き字引のように用務員をしているカールが、良いと評価したのだ。しかもイケメンだとも言った。
19歳のクラーラは、こんな辺鄙なところにいても乙女心は捨ててはいない。一刻も早く、そのご尊顔を賜りたい。
とはいえ、何事も最初が肝心。
だからこのままウキウキとした気分で、室長部屋に飛び込みたい気持ちを押さえて、一先ず研究員たちが過ごす共同研究室兼談話室へと足を向けた。
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