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─── 時は少し遡る。
初夏の日差しが差し込む室長室の窓辺で、ヴァルラムは大変不機嫌な顔で外の景色を見下ろしていた。
悶々とした気持ちと、無数の針で胸を刺される痛みを堪えながら。
そこそこ身なりの良い黒髪の青年と、いつもより着飾ったクラーラは手を取り合って談笑している。
しかもその青年は、3年前に婚約破棄を告げる手紙を自分に手渡した不届き者ときている。
そんな相手とクラーラが醸し出す慣れ親しんだ空気が、否が応でも窓ガラス越しに伝わってくる。
(……くそっ。学生時代、僕にだってこれほど甘ったれた顔なんてしなかったじゃないか)
嫉妬の視線を向けていることにクラーラは間違いなく気付いていないだろう。
もうずっと自分ばかりが、クラーラを追いかけている。これを虚しいと言わずに何と言おう。
でも、やめられない。そんな自分がとても滑稽だ。
「─── すみませーん。失礼しますわよー」
「なんですか?」
突然部屋に入り込んで来た研究者の一人─── リーチェに、ヴァルラムはつい非難の目を向けてしまった。
すぐさま見た目と同様に気の強いリーチェは、片方の口の端を持ち上げた。
「あら、お邪魔でしたか?でも、急ぎの申請書をお願いしたかったもので。それに何回もノックしましたのよ?」
「……それは失礼した。すぐに目を通させてもらいます」
威圧的な笑みに圧倒されたヴァルラムは、即座に白旗をあげた。
「そうですか。では、お願いしますわね」
リーチェはそう言って書類を手渡したついでに、ひょいっと窓を覗き込む。
「ふふっ、クラーラちゃん、楽しそうですわね」
「……そうだろうか」
「あら?やきもちですか?」
さらりと図星を指され、不覚にもヴァルラムの肩がピクリと揺れた。
「……部下に対して、そのような邪な感情は……」
(持っている。ものすごく持っている。許されるなら、手刀で握り合った二人の手を切断したい)
後半は心の中で言った。
だが、無表情を決め込むには、まだ未熟だった。
「ご安心ください、あの人はクラーラちゃんの保護者ですわ。この研究所で働くには、身元保証人は必須ですから。ま、ちょっとばかし彼は心配症で、クラーラちゃんが未成年で働き始めたこともあって、定期的にああして様子を見に来てるだけですわ」
「……」
ヴァルラムは何も言わなかった。いや、言えなかった。
婚約者であることを秘密にすると約束した以上、ほっとしたなど口が裂けても言えないし、また上司として正しい返答が見つからなかったから。
お洒落に無頓着なクラーラであるが、学生時代は実は好意を寄せる男性は少なくなかった。
パッと目を引く美人ではないが笑顔はとてつもなく可愛いし、誰にでも親切で人懐っこい。
また、父親が名の知れた医学研究者であり、彼女は実はそこそこの有名人だった。
学背時代、クラーラとの交際が始まる前からヴァルラムは何度も男子生徒が彼女の噂をするのを耳にした。あからさまにデートに誘う現場だって目撃したことがある。
そのたびにヴァルラムは、得も言われぬ不快感を覚えていた。特にクラーラと友人という位置関係にあった時は、やきもきしっぱなしだった。
幸い自分の想いが伝わり、交際に発展することができたが、ただの上級生のままだったら、どれだけ自分は苦しい思いをしなければならなかっただろう。恐ろしくて想像すら出来ない。
(……僕がこんなにも嫉妬深い人間だなんて、きっと彼女はこれっぽちも知らないんだろうな)
いや、知ろうともしないだろう。
彼女にとって今の自分は、ただただ迷惑な存在なだけ。
そう思わせてしまったのは、間違いなく自分だ。その自覚はある。しかし露骨に態度に出される毎日は想像以上に辛く、苦しい。
せめてもの救いは、あの時「他の人を好きになった」と言われなかっただけ。
しかしそれは「今は」という前置きが付く。彼女が誰かを本気に好きになったら、無理矢理脅してむしり取った婚約者という地位も、クソの役にも立たないかもしれない。
ヴァルラムは、無意識に前髪をぎゅっと握りしめる。リーチェがすぐ傍にいることをすっかり忘れて。
「ふふっ……そういば、クラーラちゃんは好きな人は居ないって言ってましたよ」
「……っ」
「あと、これはあくまで予想でしかないですけど」
もったいぶって言葉を止めたリーチェに、ヴァルラムは続きを急かすようにじっと見つめる。
無様にもこくりと喉が鳴る。余裕など何処にもない。
「学生時代の恋をまだ引きずっているようですわ」
「……っ!!」
声を出さなかった自分を褒めてやりたかった。
だが今回も、無表情を決め込むことはできなかった。ただ、自分が今、どんな顔をしているのか想像できない。
少なくとも上司としての体裁は整っていないのはわかる。だから、ヴァルラムは咄嗟に手の甲で口元を隠した。
「申請書は……すぐに目を通して、共同研究室まで届けますので……」
「ええ、そうして下さいませ」
遠回しに「どうか今は一人にしてくれ」と訴えれば、リーチェはにんまりと笑う。
「では、失礼しますわ。ああ、室長。お暇をしているなら、そろそろクラーラちゃんを呼び戻しに行ってきていただけませんか?」
「ああ、わかった」
駆けだして行くヴァルラムの頭には、急ぎの申請書のことはすっかり消えていた。
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