2.上司(元婚約者)と部下(自分)

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 自分をあれほど煽り急かしたのだから、てっきりすぐに隣町に向かうのかと思った。  でも、違った。  なぜかヴァルラムは、あっちこっちと寄り道をする。「行く気あんの?」と聞きたくなるくらいに。 「あのう室長」 「……ん?」 「……馬車を使う際には、総務課に行って使用申請をする必要がありますよ?」 「知っている」 「総務課はこの実験棟ではなく、一旦外に出て渡り廊下を通った向かいの棟ですよ?」 「もちろん知っている」 「使用申請をしないと、室長といえども勝手に馬車は使えないですよ?」 「ああ、わかっている」  しびれを切らして、クラーラが早く行こうと遠回しに訴えてもヴァルラムは、心あらずといった感じでおざなりに返事をするだけだ。  ただその表情はとても真剣で、彼が何かを賢明に探しているのはわかる。  だから助手という立場でしかないクラーラは、歩き回るヴァルラムの後ろをちょこまかと付いていくことしかできなかった。はてなマークを溢れんばかりに抱えながら。  ─── それから少しして、ようやっとヴァルラムは総務課で馬車の使用申請を終えた。  日頃、経費の使い方でヴァルラムと衝突ばかりしている総務課ではあるが、彼の真剣な様子を見て、文句を呑み込みあっさりと許可を出してくれた。  しかし、ほっとしたのも束の間、今度はても面倒臭い人物背後から声を掛けられてしまった。 「あらぁー、お出かけですか?ヴァルラムさま」  よりにもよって、カロリーナがしなを作って話しかけてきたのだ。  その姿は、つい先日なまじりを吊り上げながら嫌味を散々吐いていたお方とは到底別人のよう。笑いすら込み上げてくる。  しかし沈黙は金なり。藪を突いて蛇を出すような阿呆ではないクラーラは、壁と一体化して気配を消すことを選んだ。 「ええ、そうです」  カロリーナの問いに答えたヴァルラムだが、どこに行くとも、何を買うとも言わない。察しの良い人間なら彼が歓迎していないことに気付くだろう。  しかし空気を読む能力が皆無のカロリーナは、待ってましたと言わんばかりにステップを踏むような軽やかな足取りで近づく。  そして壁と同化してるクラーラを肘で器用に押しのけた。 「施設のものは乗り心地が悪いでしょう?よろしければ、わたくしの馬車を出しますわ」  暗に、自分も連れていけとカロリーナは訴える。  完璧な笑みを浮かべているのかもしれないが、クラーラの目には舌なめずりをする蛇にしか見えない。  しかしヴァルラムは、儀礼的な笑みを浮かべるだけ。 「御親切にどうもありがとうございます。ですが、と一緒に行きますので」  ヴァルラムが素っ気なく、でも「彼女」という言葉を強調して答えた途端、案の定、すさまじい勢いでカロリーナから睨まれてしまった。  殺気しか籠っていない視線を受け、クラーラは「ひぃっ」と心の中で悲鳴を上げる。  そりゃあ、カロリーナと一緒に行きたいかと問われたら、控えめに言って死んでもごめんだ。  その気持ちはヴァルラムも同じだったのだろう。  カロリーナの視線から護るようにクラーラの前に立つと、再び口を開いた。 「では、失礼。─── 行こう、クラーラ」  前半はひどく冷たく、後半は子猫のお腹のような柔らかい口調で促され、クラーラは心を無にして室長と並んで歩く。 「ちょっとお待ちになってくださいっ……ひぃっ、嫌っ、こっち来ないでっ」  後を追ってこようとしたカロリーナの行く手を阻むように、どこからか姿を見せたナンテンがドシンドシンと走り回る音が背後から聞こえて来た。 「なんだ?彼女はウサギが苦手なのか?」 「……そのようですね、あんなに可愛いのに」 「そうだな。私も特に動物好きではなかったが、今、ナンテン殿を好きになった」  「……っ」  意味深なヴァルラムの発言に、クラーラはむぐっと口を噤んだ。
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