2.上司(元婚約者)と部下(自分)

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 ローガの命を救うために、大急ぎで隣町まで馬車を走らせる。  夕陽はだいぶ西に傾いていたが、幸いにも馴染みの生地屋はまだ閉店前だった。  売り子の女性は閉店間際の飛び込み客に一瞬だけ嫌な顔を見せたが、ヴァルラムを視界に入れた途端、大変愛想良く木綿のロールを売ってくれた。  しかも「持ってけドロボー」とベタな台詞を吐いて、びっくりするほど値引きしてくれた。  それから再び馬車を走らせ木綿のロールを抱えて戻って来れば、共同研究室は怒鳴り声こそ聞こえないが、未だに暗雲が立ち込めていた。 「おかえりー。早かったわねー」  一人呑気にティータイムを楽しんでいたナタリーは、クラーラを目にした途端、ひらひらと手を振った。 「あー……はい。急ぎました」  緊迫した空気をものともしないで菓子を頬張り始めるナタリーに引きつつも、クラーラはそっとリーチェの前に木綿を置く。  その姿は、さながら神に貢物を与える神官のようだった。  木綿のロールが視界に入った途端、リーチェはほんのちょっとだけ機嫌が治った。 「クラーラでかした。お利口さんのあんたには、チューしてあげる。でもローガ、私はあんたを許さない」 「え゛、ちょっ、もう良いじゃん。替えの布が手に入ったんだし」 「ぬかせ小僧。結果オーライで済む話じゃないのよ、これは」 「えー、だけどさぁ……お、おい待てっ。蹴りはナシだっ、蹴りは!」   クラーラを抱き込みながら美しいおみ足を振り上げたリーチェの前に、ヴァルラムは音も無く立つ。 「恐れながら……取込み中悪いですが、一つ質問をしても良いですか?」 「何?」  つっけんどんな口調でリーチェは、ヴァルラムに視線を向ける。  ちなみに彼女の足は、いつでもローガに踵落としができるよう振り上げたままだ。  際どい位置に立っているヴァルラムは、リーチェのスカートの中身を見ないよう身体の角度を少しずらしてから口を開いた。 「実はこれを買いに行く前に、倉庫に寄ったんですが木綿のロールはまだ幾分か残っていました。そこで質問なんですが」 「なんですって!?」  ヴァルラムが言い終えぬうちに、青筋立てたリーチェは一旦足を下ろすと、今度はローガの胸倉を掴んだ。 「い、いやだってさ、ここに置いてある木綿のロールだけ、なんか妙に香りが強くなるんだよ。それに何かわかんねぇけど、香りの持続時間も長いしさ─── ってか、室長なぜこのタイミングでそれを言う!?俺を殺す気なのか!?」  がくがくと揺さぶられながらローガは涙目で言い訳をこく。  しかし、そんな戯言はリーチェの耳に届かない。 「おだまりなさいっ!そんなわけ───」 「それが、あるんです」 「え?」  憤慨していたリーチェは、ヴァルラムの予期せぬ言葉に、鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くした。 「草木染めをする前に、下処理を行うと聞いたことがあるんです。リーチェ殿はあの木綿のロールに、なにか処理を加えた記憶はありますか?」 「ええ。といっても豆乳で洗っただけだけど……」 「それですね」  ヴァルラムは訝しそうな顔をして固まったリーチェの隣に立つと、まずローガを自由の身にする。  それからゆっくりと、どこかの教授が講演するような口調で語り出した。 「木綿は植物繊維だから染めにくいと聞きます。ですが豆乳に浸すと一時的ではありますがタンパク質が付着して、絹やウールといった動物繊維と同じ状態になるはずなんです。ここまでは、合っていますか?リーチェ殿」 「ええ、そうよ」  こくこくと何度も頷くリーチェに、ヴァルラムは薄く笑うと再び口を開いた。 「これはあくまで予想の範疇ではありますが、一度洗った状態だから繊維の目が荒くなったこと、そして動物繊維は毛羽立ちやすい特製があるため、香り成分が通常の木綿より多く付着したのだと思います。と、同時に香りが持続しているのではないでしょうか?」  流れるような口調で持論を展開したヴァルラムに、リーチェとローガはあんぐりと口を開けた。  そしてしばしの沈黙の後、互いの顔を見合わせた。 「……そうかも」 「……そうしか考えられない」  同時に口を開いたリーチェとローガの間には、すでに険悪な空気は無かった。
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