2.上司(元婚約者)と部下(自分)

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 ローガが自分の乱れた胸元を整えたのが合図となって、リーチェと彼は再び口を開く。 「あのさぁ」 「あの、ね」  息がピッタリ合いすぎたせいで、二人の間に沈黙が生まれる。 「……悪かったな」  今度はローガだけが言った。  すぐにリーチェは首を横に振る。 「ううん、私もカッとなり過ぎた。ごめん。怪我とかしてない?」 「ああ、なんとか。ただ、ビーカーを投げるのは止めろ。赤字経費なんだから」 「うん、そうだね。……そうする。今度はハサミを使うことにするわ」  クスッと笑いながら物騒なことを言ったリーチェに、ローガはぎょっとした。  でも、同時にぷっと吹き出し、そのまま「あははっ」と笑いあう。仲直りをした証拠だった。 (すごいなぁ。あっという間に仲直りしちゃった)  そっとリーチェの拘束から抜け出したクラーラは、まるで魔術師のようなヴァルラムの話術に目を丸くする。  視界の隅に入ったナタリーもティーカップを持ったまま、唖然としていた。  そこで、ヴァルラムとばっちり目が合った。  でも、なんと言葉をかけて良いのかわからず、口ごもってしまう。  その様が面白かったのか、ヴァルラムがふっと解れたように笑った。そして、そのままリーチェとローガを交互に見る。 「ところでこれは提案なんですが、2ケ月前から保留になっている女性用の寝間着の件ですが、香りを維持する方法が見つかったし、香木の欠片をボタンにすれば、商品化できるのではないかと思うのです」 「あ!」 「そうか!」   ヴァルラムのさらり発言に、二人は同時に声を上げた。  実は、リーチェとローガはそこそこ大きい商社から”長期間香りが維持するパステル色の寝間着”の依頼を受け、ずっと共同開発している。  しかし、それは簡単そうでなかなか難しく、暗礁に乗り上げていた。  商品化されれば今後の研究費が多大に潤うことになるが、泣く泣く闇に葬るしかないと諦めかけていたものだった。  それが、ヴァルラムの助言によって実現可能になるかもしれない。  気付けば二人は、ハイタッチをしながら「さっそく取り掛かるかっ」とアイコンタクトを取り合っていた。  ただリーチェが依頼されていた染物を片付けるのが先決。なので、ローガは豆乳の下処理を覚えたいという意思もあり、一先ずリーチェの染物を手伝うことになった。   そうして、あれよあれよいう間に今後の段取りをきっちり決めた二人は、居ずまいを正してヴァルラムと向き合った。 「ありがとうな室長っ。恩に着る!よし、寝間着のサンプルができたら俺の秘蔵の酒を出してやっからな」 「私もお礼を言わせて。本当にありがとう!今度、タイを染めてあげるからっ。リクエストがあったら教えてねっ」  満面の笑みで礼を言うリーチェとローガに、ヴァルラムは「お役に立て良かったです」と室長然して、個別の研究室に向かう二人を見送った。  香料担当のナタリーも、豆乳の下処理が気になるのだろう。  「私も手伝うー」と言いながらリーチェたちを追うように部屋を出てってしまえば、共同研究室にはヴァルラムとクラーラの二人っきりになる。 「……ありがとうございます。室長」  衣擦れの音よりもっと小さい声でクラーラがそう言えば、ヴァルラムは軽く眉を上げた。 「礼には及ばない。……と、言いたいところだけれど」 「え?」  中途半端なところで言葉を止めたヴァルラムを、クラーラはじっと見つめる。 「結構、頑張った。君に良いところを見せたかったんだ」  そう言いながら照れ臭そうに笑うヴァルラムの笑顔に、胸がぎゅっと締め付けられた。  震える唇が、うっかり変な言葉を紡がないように下唇を噛む。  学生時代、クラーラはヴァルラムと藤棚で出会うまでは、彼を伝説の存在程度にしか思ってなかった。  学年も学科も違うため、接点は皆無。また伝説上の生き物に対してクラーラは特に興味も持てなかったため、彼と仲良くなりたいとは思っていなかった。  欠点が無い人間など胡散臭いとしか思えなかったし、そもそも近づきたいと願ったところで水に浮かぶ月のような存在に、どうやって手を伸ばして良いのかわからなかった。 (そんな彼が、私なんかのために頑張ってくれた)  室長部屋の光景が不意に蘇る。  香木や香料。それから染料について書かれた沢山の専門書。研究員が書いた論文の写しの山。商品化された際に添付する歴代の仕様書。  鉱石学しか専攻していないはずの彼が、研究員に向け的確なアドバイスをすることができたのは、室長としての業務以外にも惜しむこと無く研究員の為に─── 自分の為に、時間を割いてくれていたということ。  じん、と胸が熱くなる。  これは恋慕の情とは違う。純粋な敬意の念だ。 「うん。本当にありがとうございました」  二度目の”ありがとう”は、自分でもびっくりするくらい自然に紡ぐことができた。
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