2.上司(元婚約者)と部下(自分)

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「……ありがとうございます、か」  ヴァルラムは今日の慌ただしい出来事を思い出して、苦く笑った。 (再会できたのは嬉しいが、一人の夜はかなり辛い……)  クラーラが自分の元から去ったのは、卒業間近の18歳だった。  それから3年間ずっと、ヴァルラムはクラーラを探し続けていた。あのカプチーノ色の髪に触れる事だけを夢見て来た。  室長となったヴァルラムに与えられた私室は、この研究所で上位に入る広さである。  ただ、生まれ育った王都の邸宅に比べれば遥かに小さい。それでも日常生活に困ることは無い。  ごろんとベッドに横になっていたヴァルラムは、窓に足を向けカーテンを開け放つ。ガラス越しに見えるのは、情けない顔をした自分と底無しの闇。  マノア植物研究所の総面積は、ランドカスタ国で3本の指に入る。資金面では下から数えて3番目ではあるが。 「……同じ場所にいるというのに」  どうしてこんなにも遠く感じるのだろうか。  切に願っていたカプチーノ色の髪を毎日見ることができて、彼女の鈴の音のような声も聞くことができる。  夢ではなく、幻想でもなく、現実に探し求めていたクラーラがいる。手を伸ばせば届く距離にいてくれる。  ただ自分がクラーラのことをどれほど想っても、もう彼女は自分と同じ想いは抱いていない。そして、自分の愛を受け取る気も。  再会した初日、あそこまで拒まれるとは夢にも思っていなかった。  多少のぎこちなさはあるとは覚悟していた。それでも自分に向けて手を伸ばしてくれると疑いもしなかった。  自分と同じように『会いたかった』と言ってくれると思っていた。  ぶちっと引きちぎられるように終わってしまった時間を元に戻したいと、クラーラもきっと思ってくれていると信じていた。  それ以外の可能性など、一度も考えたことも無かった。  けれど、クラーラはただただヴァルラムの存在に怯え、あろうことか逃げようとしたのだ。  正直言って腹が立った。  どうしてそんな気持ちを踏みにじるようなことをするのだと、傷付きもした。  理性が飛んで、彼女に強引に口付けをしたことは後悔している。けれど、時間を巻き戻したとしても、抑えきることはできないと断言できる。   クラーラを床に組み敷いた時、ほっそりとした身体から誘うような甘い香りがした。ポキリと折れてしまいそうなほど細いのに、その身体はとても柔らかかった。  あの時。嫌がる彼女を無理矢理抱いて、一生消えない傷を付けて、泣くこともできないくらいに思考を奪って、王都へと連れ戻すことだってできた。 「……はっ」  ヴァルラムはここで己の思考に嫌悪し、自嘲した。  そんなことできるわけがない。  どうせ自分は、あのくだらない「どうか婚約者であることは黙って」という懇願を愚かにも受け入れてしまうのだ。何度時間を巻き戻したって。  なぜなら、過去一度も、自分に何かをねだったことが無いクラーラの初めての願いなのだから。  クラーラのことを迷いなく恋人と呼べた頃、自分は彼女から何かを食べたいとか、これが欲しいとか、あそこに行ってみたいとか、恋人同士が当たり前に口にする小さな可愛らしいお願いすらされたことがなかったのだ。  どんなに困った時ですら、「助けて」という言葉すら言ってくれなかった。  だからずっとヴァルラムは彼女が何を求め欲しているのか先回りする必要があった。  謙虚なクラーラが愛おしいと思ったのは嘘ではない。でも、心の中ではいつも自分は彼女にとって頼れる存在ではないのかと傷付いていた。   そんな彼女が泣きながら口にした訴えに、「わかった」以外の何が言えただろう。   しかし願いを聞き入れたとて、取り返しのつかないことをしてしまったのは事実だ。随分とこじれ、距離が遠のいてしまったことは否めない。  自分が口を開くたびに、クラーラはいつも緊張している。また何かされるのだろうか、と疑うような眼差しをむける。  学生時代、無防備な表情を見せてくれていた人とは別人のようだ。もちろん、そうさせてしまったのは間違いなく自分であり、彼女を責めるつもりはない。  でも遣る瀬無い気持ちを散らす方法が見つからない。  ならいっそ諦めてクラーラと距離を取れば良いのだろうか。求めず、与えず。ただの上司として。  少なくともそうすれば、彼女はこれ以上自分に向けて警戒心を持つことはしないだろう。 「……はっ」  できもしないことを考えてしまった己の愚かさにヴァルラムは再び笑った。  今にも泣きそうに声を震わせて。   これまでヴァルラムを支え続けてきたものは、クラーラと描く未来を守る為だった。  けれどもクラーラはヴァルラムをもう必要としていない。確固たる自分の居場所を見つけてしまっている。  もう二度と、自分はクラーラの特別な席に座ることはできないのかもしれない。  そう思うと、苦しくて仕方が無かった。
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