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「─── ここは、とても落ち着くな」
長い沈黙の後、ヴァルラムは夜空から目を離さずにポツリと呟いた。
クラーラも、つられて空を見上げる。
夏を迎えた研究所は、クラーラにとって一年で一番好きな季節。
すぐ近くにある山全体は青々と輝き、敷地内に咲き乱れる花々に匂いが立ち込める。花びらに付いた朝露の雫はどんな宝石より美しいし、山を焦がす夕焼けは目が痛い程に眩しい。
何より、眼前の夜光花を独り占めできる。
こんな贅沢は、王都にいた頃だってできなかった。
そして、ヴァルラムのさらっと呟かれた言葉があまりに嬉しくて、心がざわめき立つ。
「……静かすぎて、居心地が悪いのかと思っていました」
つい憎まれ口を叩いてしまったクラーラに、ヴァルラムが苦笑する気配が伝わる。
「いや、自分でも気付かなかったが都会の喧騒は苦手だったのかもしれない。まだまだ君のようにメコとナラには歓迎されていないようだが、ナンテンは最近膝に乗ってくる。存外、悪くない」
「あはっ、ナンテンは気を許すとどこまでも甘えてくるから、気を付けたほうが良いですよ」
「そうか。肝に銘じておこう」
「そうしてください」
ヴァルラムが話し始めた途端、居心地が悪かった空気が飛散した。
中身のない会話だとわかっているのに不毛だと思えない。それどころか、自然に言葉が紡がれていく。
そして、目の前に広がる光景は毎年同じはずなのに、今日に限って首を傾げたくなるくらい綺麗だった。
クラーラは緩む頬を見られたくなくて、ショールで口元を隠した。
再び沈黙が落ちる。
でも、それは先ほどのような苦痛な時間ではなかった。
「─── ふと思ったんだが」
「はい」
しっとりとした心地よいテノールが闇夜に響く。
「この花を王都で広めたら、かなりの財源を確保できると思ったんだが……君は、どう思う?」
さすが人の上に立つ人間だ。
そして、毎日総務課と実験経費枠でやりやっているお方だ。目の付け所が違う。
しかし、クラーラはヴァルラムの提案に同意することはできなかった。
「……んー。一度はそんな案も出たんですが、色々と問題がありまして……」
「と、いうと?」
「この環境じゃないと育たないんです。ローガさんが王都にある知人の屋敷の温室で育ててみたら全滅だったそうで」
「そうか。気候の変化には弱いのか」
「そうらしいです。で、その後、この季節だけ一般公開……っていうか、入場料を取って見物させようとしたんですか……」
「実現化はしなかった、というわけか」
「はい。なんといっても、ここは訳有り者……あ、いえ、人見知りが激しい人達ばかりなので、お客といえど見ず知らずの人間が集まるのを良しとしなかったんです」
「なるほど。配慮に欠けることを聞いてしまってすまなかったな」
「いいえ、そんな……」
拙い説明だったけれど、ヴァルラムはあっさり納得してくれた。
そうして、一瞬だけ肩が触れ合った。
少し遅れて、彼がぐるりと温室を見渡したことに気付いた。ただそれだけなのに、触れた片側の肩だけ妙に熱い。
「なら、特別な人しか見れないとなると、ここはまるで天国みたいだな」
「……そ、そうですね」
まるで場を取り繕うように早口に言ったヴァルラムに、クラーラはぎくしゃくと頷いた。
頷いた拍子に、シュッと布が触れ合う音が聞こえる。
─── ヴァルラムの腕がピクリと動き、小さく息を吐いた。
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