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共同研究室の大きな出窓のカーテンを開ければ、朝日が一気に差し込み、クラーラはその眩しさに目を細めた。
かつて治療室として使われていたここは、古いながらもかなり広い。
しかし研究員達全員が資料を広げても問題無い大きさのテーブルが、床面積のほとんどの割合を占拠している。
また一方の壁は、収納棚で埋まっており、棚にはビーカーや試験管といった実験道具の他に、試作品や本が並べられている。
他にも茶器を置く為のワゴンや、何かの図面らしい丸められた紙が空き箱にだだくさに差し込まれている。
端的に言えば、これ以上整理整頓できない程に物で溢れかえった部屋だった。
(新しい室長は、これを見たらぎょっとするかなぁ……するだろうなぁ……後でちょこっと片付けしておこう)
そんなことを考えながら、クラーラはポールハンガーから自分の白衣を抜き取り、袖を通す。身だしなみは大切だから、髪もきちんと一つにまとめる。
白衣の皺を手で叩いていたら、開け放たれたままの扉から白いモフモフとした生き物が飛び込んで来た。マスコット的な存在のウサギのナンテンだ。
突然変異したナンテンは小型犬くらいの大きさがあり、また、おやつをくれるクラーラにとても懐いている。
そして今もおやつを強請るようにクラーラの膝を鼻先をツンツンする。無表情ではあるが、その仕草はぎゅーっとしたくなるくらい愛らしい。
「うんうん、ちょっと待ってね。今、干しリンゴを……あ、違う違うっ」
ついつい思考が脱線しかけたが、首を横に振って元に戻す。
何を置いても、新しい室長様にご挨拶をしなくては。
ちなみに室長部屋は、この共同研究室の隣にある。そして部屋同士が薄い扉一枚で隔てられているので、そこから顔を出したくなる。
しかし、やっぱり何事も最初が肝心。心証を悪くしない為にも手間を惜しんではいけない。
無表情ながらもガッカリ感を全開に出すナンテンを見ないようにして、クラーラは廊下へ出た。
廊下を出て4歩で到着した室長部屋の扉をノックすれば、すぐに、どうぞと扉越しに声が聞こえた。
「初めまして、現在研究員の見習いをしていますクラーラ・セランネと申します。雑用や人手が必要な時は、どうぞ私にお申し付けください。それと他の研究員の皆さんは───」
こちらに背を向けて窓の景色を見ている真新しい白衣に身を包んだ室長に、つらつらと挨拶の文言を紡いでいたクラーラだが、何かの予感を感じて口をつぐんだ。
それが合図になったかのように白衣が靡き、その男はゆっくりと振り返った。
「久しぶりだね、ララ。相変わらず可愛いらしい声だ。一番最初にこの扉を開けるのが君であるよう早朝からここで待機していて良かった」
ふわりと、今日のような春の日差しのような笑みを浮かべて、声の主はそう言った。
滑らかなテノールが耳に響く。3年前と同じ穏やかで、手の甲で撫でられているかのような暖かみのある声。
ゆっくりとこちらに向かってくる青年に、クラーラは息を呑む。
「......ヴァル」
窓から差し込む陽の光に反射して、プラチナブロンドが眩しいほどに輝いている。清潔感のあるミントグリーンの瞳は、尊いものを見るかのように細められている。
この笑みを、声を、自分だけに注がれていた日々があった。そして、それを自分は心から嬉しいと感じていた。
─── でも……それは、もう過去のことだった。
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