3.流れ星に願うのは

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 今を去ること4年前、ヴァルラムはアウスゲネード学園の敷地内で妖精を見た。  でも、それは妖精ではなく人間で─── 入学したての女生徒クラーラだった。  真新しい制服に身を包み、鈴を転がしたような可憐な声で謡いながら、花壇の水やりをする彼女は、ヴァルラムにまったく気付いていない様子だった。  その姿はあまりに美しくて、儚くて、ヴァルラムは本気で妖精なのではないかと思った。見慣れている学園の光景が、それほどに現実感のないものだった。  だから、たまたま自習時間の際にふらりと学園内の端にある藤棚に足を向けた時、心底驚いた。その妖精が、藤棚のベンチの上で本を枕に昼寝をしていたから。  無防備な寝顔は、とてもあどけなく誰にも見せたくないと思うほど可愛かった。  花壇の水やりを日課としているのに、彼女の肌はきめ細かく、一度も日に当たったことがないかのように真っ白で美しかった。  そよ風に揺れるカプチーノ色の髪は、柔らかそうで毛先が太陽の光に反射してキラキラと輝き、ヴァルラムは気付けばベンチの前に膝を付いて食い入るように見つめてしまっていた。  寝顔を見られたと知ったら、嫌われてしまうかもしれない。  そう思ったけれど、視線を剥がすことは到底無理だった。  それに自分がここに居て防波堤となっていれば、彼女の寝顔を誰にも見られなくて済む。  そんな屁理屈を頭の中でこねて、こねて、こねまわして、結局クラーラが目を覚ますまでそこにいた。 『おはよう。よく眠れたようだね』  勇気を振り絞って声をかければ、クラーラは寝ぼけ眼のまま自分を見た。 『えへへっ、気持ちよかったです。でも、サボったのは、内緒にしてください』  ふにゃりと笑った彼女を ─── この出会いを絶対に手放したくない、とヴァルラムは強く思った。  それからクラーラと共に時間を過ごし、自分が彼女の一番の理解者だと自負していた。  学園の生徒の中で誰よりも彼女のことを知っていると思っていた。  でも、それは自惚れに過ぎなかった。  なぜなら、クラーラがどうしてこの辺境の訳有り研究所の一員になったのか、ヴァルラムは知らない。  クラーラの身に降りかかった一連の不幸の最中、ヴァルラムは彼女の傍にいることができなかったから。  アウスゲネード学園はインターンシップ制度を取り入れている。そのため卒業試験を無事及第した生徒は、一ヶ月間の実施訓練を受けることが義務付けられていた。  ヒーストン家は代々統治する領地に幾つかの鉱山を持っていた為、ヴァルラムは鉱石学科を選択していた。  その為王都からかなり離れた鉱山で、ひと月以上クラーラと離れた生活を送らなければならなかった。  ヴァルラムはもちろん時間を作っては、クラーラに手紙を綴った。  遠く離れた場所では、当然ながら手紙のやり取りにも時間を要する。返事がこないのは、仕方ないと自分に言い聞かせていた。  そして寂しさを抱えながら実施訓練を終え、王都へと戻って来た時には既にクラーラは居なくなっていた。  ─── 彼女の身に、何かが起きた。  それだけはわかった。  けれど何も告げることなく消えてしまい、手紙一つで婚約を破棄しようとしたことが解せなかった。  鉱山へと向かう前は、クラーラとの関係は良好だった。手を握り、指先に口付けを落とせば「身体に気を付けてね」と今にも泣きそうな顔で、彼女は笑った。  不安げで、とても寂しそうで、思わず抱きしめてしまうほど可愛かった。  だからこそきちんと成果を上げて戻ってくるつもりだった。それが彼女との婚約する条件でもあったから。  クラーラと自分の交際は、とても順調だった。  しかし結婚を前提にといった場合、順調とは言い難かった。  両親はあからさまに……とまではいかないが、難色を示していたのだ。残念ながら、クラーラの父親も諸手を挙げて賛成はしてくれなかった。  もちろん同じ貴族同士とはいえ、クラーラと歩む未来は当時学生だったヴァルラムとて、風当たりが強いものだと容易に想像がついていた。  それでも、自分はクラーラを選んだ。彼女の存在は何ものにも代えがたかった。  そんな気持ちを両親に言葉で説得したところで、自分は当時まだ親の庇護下にあった。  だからヴァルラムにとってクラーラとの結婚を認めさせるには当主である父親の言いなりになるしかなかった。  学生の間に論文を書き、学会に認めさせろ。  成績は常にトップでいろ。  長期休暇は全て家の為に使え。交際時間は与えない。  無茶ぶりにも程があった。   お前の血は何色なのかと、詰め寄りたかった。   けれども、親が決めた無難な相手と結婚し、代々受け継がれてきた領地を守り、次の世代に繋げることだけが生きる意味だと思っていたヴァルラムにとって、クラーラとの恋は特別だった。  諦めるようにけしかけられた難題でさえ、全て受け入れ結果を出し続けてきた。  その結果、クラーラは正式にヴァルラムの婚約者となった。  もちろん今でも、ヴァルラムはクラーラの婚約者だ。  婚約破棄を告げた手紙は、セランネ邸の使用人であったジェラルドの前で破り捨てた。彼を殴らなかっただけ、人として褒めて欲しい。  しかし両親は、クラーラが王都を去ったことで、この婚約をなかったものにしようとした。平民となった娘を妻にすることなんてと、露骨に口にした。  しかしヴァルラムは、それに抗った。  アウスゲネード学園を卒業後、ヴァルラムはクラーラを妻にする条件として、2年もの間、父の言いなりとなった。  もちろんその間、ヴァルラムはヒーストン家の名を使い、薬草学を専攻していた彼女なら……と予測を立て、医療機関や薬草園もくまなく探した。  各地に点在する修道院にも、しらみつぶしに足を運んだ。  だがどんなに探しても、クラーラは見つからなかった。  最悪のことを想像して、酒を呑んでいないというのに吐いたことだって何度もあった。  それでもヴァルラムは諦めなかった。  そして月日が流れ、偶然にもここマノア植物研究所でクラーラが働いていることを知った。盲点だったと己の不甲斐なさを責めると共に持てる権力全てを使って、彼女の上司─── 室長という職を得た。  そう。ヴァルラムは努力の甲斐あって、クラーラを見付けることができた。  本人から婚約破棄を撤回する言質も取った。無理矢理脅してむしり取ったという前置きがつくけれど。 (……本当はそんな形だけのものなんて要らない。欲しいのはララの心だた一つだけなんだ)  ヴァルラムは、室長部屋の執務机に肘を乗せ、深く息を吐く。 「ずっとずっと好きだと言ってくれたくせに」  ─── 嘘つきめ。  誰も居ないという気の緩みから、これまでずっと抱えていた恨み言を、つい口に出してしまった。  その言葉はとても小さく、簡素な室長部屋の壁に吸い込まれていくはずだった。けれども、 「そうよね、嘘は良くないわ」  バンっと隣の研究室に続く扉が開かれたと同時に、聞きなれた声がヴァルラムの心臓を刺した。
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