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無様に震えることしかできないクラーラの後頭部を、ヴァルラムはそっと持ち上げる。結っていた髪を解くために。
ふぁさりと、カプチーノ色の髪が床に広がる。
息つく暇も無く、ヴァルラムが迷いを振り切るように、クラーラのワンピースの胸元に手をかけた。
─── プチン。
ヴァルラムの荒々しい手つきに、ワンピースのボタンの一つが弾け飛んだ。
(……ヴァルは本気なの?私、ここでヴァルに抱かれるの?)
はたはたと涙を流しながら、そればかりが頭の中で回る。
「……泣くほど、嫌なんだね」
宥めるように髪を手櫛で梳くヴァルラムは、これから力づくで抱こうとする野獣のようにはどうしても見えなかった。
道に迷った子供のような、癇癪を起こし過ぎて疲れ果てた幼子のような、道端で拾った手紙をどうして良いのかわからないような─── 途方にくれた顔だった。
まかり間違っても、性欲だけを処理したい男の顔ではなかった。
「ヴァルラム……さん」
自分でもびっくりするほど、落ち着いた声が出た。
「なん……だい?」
「私、さっきの言葉撤回する。だから……こんなことしないで」
「……本当か?」
「うん」
クラーラが頷いたと同時に、ヴァルラムは身体を起こした。
すかさずクラーラも身を起こして、ずるずるとしゃがんだ姿勢のまま彼と距離を取る。
そして、乱れた髪を手櫛で整えながら、絶対に譲れないことを口にする。
「婚約破棄は撤回する。でも、研究員のみんなには、婚約者同士ってことは黙ってて。内緒にして欲しいの。……お願い」
3年かけてクラーラは、人見知りが激しく疑い深い研究員たちと打ち解け、ここでの居場所を作ったのだ。
でも、婚約者が迎えに来たとわかったら、研究員達は自分を”いつか去る者”として見るだろう。
行き場を失った者たちが集うこの場所では、それは裏切りと取られても仕方が無い。
そして、どれだけ時間をかけて関係を築いていたって、壊れるのは一瞬だということをクラーラは知っている。
婚約破棄を撤回したのは、ヴァルラムのあんな顔をこれ以上見たくなかったから、つい口にしたまでのこと。
彼の赴任期間が終わっても、自分は絶対にこの研究所を離れるつもりは無い。
「……秘密にして、か」
少し離れた場所で、ヴァルラムは面白くなさそうに呟いた。
たったそれだけのことで自分の意思とは無関係に、びくりと身体が震えてしまい、はだけた胸元を咄嗟に隠してしまう。
そうすることでまた彼の怒りに触れてしまうかもしれないが、それでも淫らな恰好のままでいることに耐えられなかった。
「いいよ、わかった」
てっきりどうしてだと詰め寄られることを覚悟していたけれど、ヴァルラムは拍子抜けするくらいあっさりと要求を呑んでくれた。
「……い、良いの?」
「ああ。君がそう望むなら」
幻聴ではな無いのかと疑えば、ヴァルラムは諦めたような笑みを浮かべた。でもしっかりと頷いた。
そして唖然としているクラーラを捨て置いて、床に投げ出されたままのタイを結び、白衣に袖を通す。
─── ポタリ。
床に座り込んでいたクラーラの膝に、水滴が落ちた。
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