2.上司(元婚約者)と部下(自分)

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(......婚約者だってこと、黙っててってお願いしておいて本当に良かった)  助手であるクラーラは、少し離れた入り口扉に置かれている小さな椅子に腰かけているが、研究員達はちょこちょこ同意を求めるようにこちらに視線を飛ばしてくる。  ナンテンの背を撫でながら、それらを曖昧な笑みで受け流しているが、内心クラーラだって同じ気持ちだ。 (......まぁ、無理もない。あのヒーストン家のご長男様だもんね)  極力突っ込まれない無難な表情を作りながらも、クラーラは心中で苦笑する。  貴族の頂点に立つ公爵家の跡取り息子が、こんな辺鄙な場所に居る理由がまったくわからないのだ。  もちろん財政的に厳しいなんていう話も、縁起でもないが没落したなんていうことも聞いていない。そもそも、そんなネタがこの掃き溜め研究所に届くことも無い。  真相は闇の中。どうしても知りたいのなら、リスクを承知で本人に直接問うしかない。  などということを冷静に考えつつも、クラーラも研究員達と同様に困惑している。  つい数時間前、彼と再会した時は混乱しすぎて、こうなった経緯を聞けなかった。というか聞き忘れてしまった。 (......自惚れて良いなら、私を追いかけてくれたってこと?いや、それは無いだろう)  なぜなら、クラーラはこの研究所にいることを誰にも隠してはいない。あえて知らせることはしなかったけれど。  探そうと思えば探せたのだ。  こう言ってはアレだが、3年も放置されるほど自分は雲隠れしたつもりは無い。  そんなふうに古参の研究員の囁きを何とはなしに聞きながらクラーラが物思いに耽っていても、ヴァルラムは穏やかな表情のままだ。威圧的に支配する気は皆無のようだ。 「……あのう、質問いいですか?」 「なんなりと、どうぞ」  研究員の一人───ナタリーが覚悟を決めると、ヴァルラムに向かって挙手をした。 「どうしてここに?」 「社会勉強で」  他人事のようにさらりとヴァルラムが答えた途端に、ここにいる全員が揃って首を傾げた。もちろん、クラーラも。 「……っと、少し大まか過ぎたようですね。実は、領地で珍しい植物が栽培できるようになって」 「それは何?何??詳しく!!」  珍しい植物というワードにがっつり食いついたナタリーは、ぐいっと前のめりになった。ほんの少しだけふくよかな身体に相応しい豊満な胸がぽよんとテーブルに乗る。  しかし、この場にいる男性3人はそれに見向きもしない。それより公爵家の跡取り息子が言った珍しい植物のほうに興味深々といった感じだった。 「パチュリというものです」  そう言って、ヴァルラムは白衣のポケットから布に包まれたギザギザした大きな葉っぱを取り出した。  海を渡った遥か遠くの貴重な植物を前に談話室は異様な空気に包まれた。  この場に居た全員がごくりと息を呑む。もちろんクラーラも。  薬草学を専攻していたクラーラは、医学としてこの葉の効用を知っている。  風邪に頭痛。吐き気に腹痛。しかも毒蛇に噛まれた際の解毒剤にもなる万能薬。  ただし入手困難、栽培不可能な稀少な植物。  しかも、このパチュリは別名”香りの救世主”とも言われている。  単体では土の香りに近く、お世辞にも良い香りとは言えないが、他の香りにちょっと足すだけで深みが増したり、香りの持続作用が増したりもする。 「ちょ、ちょっと触って良いか?」 「私も、触らせてっ」 「もちろん、どうぞお手に取ってください」  香りの魔術師の異名を持っているナタリーとしては、それが喉から手が出るほど欲しいと常日頃からぼやいていた。もちろん香木担当のローガも同じく。  そんなわけで、ヴァルラムのお許しが出た途端、ナタリーとローガはテーブルに置かれたパチュリの葉を掴むと、すぅーはぁーと全身にその香りを取り込み始めてしまった。 「詳しい者に確認したところ、種からの栽培は難しいが苗を温室で育てるなら、量産が可能のようです。あ、事後報告で申し訳ないですが、すでに所長に許可を得て幾つか植えさせてもらいました」  瞬間、ナタリーは聞いたこともない悲鳴を上げた。 「ああああ、あの、パチュリが……ここで栽培!?嘘……信じられないっ。どどどど、どうしようっ。今日から私、眠れないわっ」  顔を覆って身をよじるナタリーは、長年想いを寄せていた彼に振り向いてもらえた乙女にしか見えない。  といっても相手は物言わぬ植物である。  どこもかしこも柔らかそうなふっくらボディーのナタリーがどれだけ想いをよせても、パチュリは抱きしめてもくれないし、愛の言葉を囁くことも無い。  だが、そんなことは些末なこと。うっとりと目を細めるナタリーの心はもう既に温室に向かっている。  そして、その隣に腰かけている香木担当のローガも、初めてのデートで緊張している青年にしか見えない。  ソワソワソワソワと、落ち着かない様子で同じく温室へと向かいたいようだった。
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