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終わっていく世界の内側で
もう間もなくこの世界が滅びるというのに、何をやっているんだろう。窓の外の至る所で聞こえてくる悲鳴を聞きながら泡のように浮かび上がったその思考はすぐに別の思考で塗り潰されていく。
これが逃避だということはわかっていた。それでも、自分にはこれしか出来なかったのだ。平凡とはいえない、何もない人生だった。大学まで順当に進学したのは良かった。とはいっても一流の大学ではない。倍率もそこまで高くない、二流以下の学び舎だ。それでも志を持ってそこに進んだ少年であったが、進学した段階で満足し、そこで燃え尽きてしまった。
堕落に塗れた大学生活を送った者に待っていたのは、碌でもない就職先。ぬるま湯に浸かっていた若者がそんなところで耐えられるはずも無く、二年と保たずに退職した。
流石に次の職場こそは真面目に働こうと全く別の業種へ転職をしたのだが、そこは更なる地獄だった。次は長く働かなければならないという強迫観念にも似た考えを抱き続けること七年。もともとそれなりに責任感の強い性格をしていた為か、毎日毎日繰り返される理不尽な罵倒や、数字を追いかけ続ける重圧に押し潰される日々を胃液を吐き続けながら耐え続けてきたが、ある日、自身の口と腸から血液が出てきた。胃と腸と食道が壊れていたのだ。それでも自分の仕事を疎かにするわけにはいかない。毎日毎日夜遅く、日付が変わるぐらいまで働いて、そのうちの二時間は罵倒をされ続けた。
何もかも自分が悪い。自分がしっかりとできていないから叱られるのだ。残業代も出ることはない。それも自分のせいだと諦め、耐えて耐えて耐えて耐えていたある日、ふと心にヒビが入る瞬間というものがわかった。そのヒビを認識した直後、見てしまったのだ。世界が滅びるという最悪のニュースを。
今までずっと何をやってきたんだろうか。血反吐を吐いて駆けずり回って、自分の手に残っていたものは何もなかった。自分の人生とは、一体なんだったんだろう。それを考えてしまえば、意外にも身体は動いてくれた。上司に辞表を叩きつけ、そのままの勢いで走り出す。会社のドアを蹴破るように開き、冬空を駆けていく。道を歩く人々が怪訝そうな顔をしてこちらを見ていたが、もう自分自身を止めるものは何もなかった。スーツが痛もうが革靴が擦れて靴擦れになろうが構わずに走り続け、あっという間に自宅のワンルームマンションへと辿り着いた。普段は電車で三駅ほど揺られて会社と往復していたが、これからはあそこに行かなくていい。そう思うだけで脳にこびり付いていた錆のようなものがポロポロと剥がれ落ちていくような気がした。
世界が終わるまで、やりたいことをやろう。暫くの間考えてみるが、いくら軽くなったところで愚鈍の極みに至っていた脳はまだまだ適切な答えを導き出すことはできなかった。意図的に働いていた時の記憶を頭の中の棚に置き、大学までの自分は何をしたかったのかゆっくりと考える。モラトリアム期間の四年間ではあったが、レポートや論文に追われる日々も確かにあった。形式はともかく、パソコンに向かって延々と文字を打ち続けている作業が妙に楽しく感じていた。
時間があったら、小説でも書いてみるか?
卒業論文を書いているときに一度だけ、そのような考えがふと頭によぎったことを思い出した。あの時も、当然であるが今でも、話を考え作り出したことはない。人生最後のチャレンジとしてはなんとも地味なものではあるが、どうせあと数ヶ月後には死ぬのだ。黒歴史になどはならないだろう。この地球ごと、データも吹き飛んでしまうのだから。
行動に移すのは意外に早かった。前職は薄給ではあったが、地球が終わるまでならバイトを週三、四日程度すればなんとか食い繋いでいける程度の蓄えは残していた。ぎこちなく指を動かし、小さなノートパソコンのキーボード部分を叩いていく。手法やノウハウなどはまるでわからない。学生時代、通学時の暇潰しに何冊か読んだ程度の知識量だ。それでも指は止まることはなかった。真っ白だったワードのファイルに、ゆっくりとではあるが確実に文字は増えていく。
話の展開もあまり考えなかった。自分の思うままに、自分の胸の中でぐるぐる回り続ける感情を我武者羅にぶつけていた。熱中しているうちに気付けば朝日が上りかけていた時もあったし、次第に早くなっていくタイピング速度により文字が増えるスピードも増えていく。書いて書いて書いて書いて目が限界を迎えたら泥のように眠りにつく。6時間も眠ることができれば体力はすっかり元通りだ。身体を酷使していた前職の経験が活きることになるとは。自嘲しながら数年感摂ることのなかった朝食をしっかり食べて、またノートパソコンに向かっていく日々を過ごしていく。
ニュースを見ることはなかった。現実逃避という面で小説を書いていたわけではないつもりではあったが、もう一度それを観てしまうとヒビが入った心が砕けてしまうかもしれなかったからだ。一度砕けてしまった心は元に戻ることはない。世界が滅びるまでの短い間、それだけは避けておきたかった。
それなりに形になってきた時、ふと気づく。賞を取るために書いているわけではないが、出版社に送ったとして呼んでもらえるような形にならないのではないか。同じことを考えているような人など幾らでもいるだろうし、初めて小説を書いているような人間がいきなり出版なんかできない。そもそも、完成して持ち込む頃にはもう世界の終わりが近づいている頃だ。審査や手続きをしている時間もないだろう。
下がりはじめたモチベーションをなんとか眺めながら考えていると、アマチュア作家達が自作の小説をアップロードしているサイトを見つけた。今までの人生の中で全く知ることのなかったそれは、市販の小説しか読んだことのなかった身としては不思議な世界に感じた。それでも、その時の自分にはこのサイトが最後に見つけた新大陸のように感じたのだ。簡潔な入会登録をし、『新規投稿』をクリックしてテキストエディタの本文をコピーして一気に投稿した。
インターネットの大海に放り投げた文字の羅列。形になるかどうかわからないものより、こうしてデータとして公開したほうがまだ人に読まれるだろう。自分自身が生きていた証を、胸の中で暴れ回るものを誰かに感じて欲しかったのだ。誰でもいい。一人だけでもいい。
ただひたすらに書いた。書いて書いて、投稿サイトにアップロードを続けた。誰が読んでいるかわからない。感想やコメントも存在しない。ほんの少しのページビュー数ではあったが、読まれているという事実だけで十分だった。もともと日の目を見るかどうかわからなかったものなのだ。もうすぐ終わる世界の中で何かを感じてくれれば満足なのだ。それだけを願って、キーボードを叩き続けた。
物語は佳境へと向かっていくと同時に、世界も刻一刻と終わりへと突き進んでいく。それでもキーボードを叩く手を止めようとは思ってはいなかった。締め切りは八月十一日の夜。深夜に世界が終わるというのだから、それまでに読み終えられるように出来るだけ早く書き上げなければならない。残り少ない日数を必死に駆け抜けて、書き終わったころには地球最後の日の朝方だった。急いで推敲や誤字脱字の確認をして、なんとかアップロードに成功する。これで、思い残すことは何もない。大きく息を吐き、テーブルに置いてあった珈琲に口をつけた。
最後の瞬間が近づいていく。安アパートの薄い壁の向こうから、恐怖に慄く隣人の声が微かに聞こえるが、それを打ち消すように新興宗教の車がスピーカーから大音量で何かを叫んでいた。まったく、世界がもうすぐ終わるというのに風情のかけらも無いな。おそらく今まで出ることのなかった嘲笑を浮かべながら、ノートパソコンを操作する。もう全ての投稿は終わったが、何回も投稿をしていた為かルーティンになっていたのだろう。指は無意識に動き、投稿サイトのページを開いてしまう。
ページを読み込んでいる間に、窓ガラスの奥から眩い光が放たれた。信じたくはなかったが、隕石が地球に落下したときに放たれた光なのだろう。自分を苦しめたものも、自分を甘やかしてきたものの、世界ごと粉微塵にしてしまう光だ。
あと僅かで世界が滅びるというのに、インターネットはまだ生きているようだった。少しだけ安堵しながら画面を覗き込むと、ホーム画面に見たことのないメッセージが表示されていた。それを見たとき一瞬、何を示しているのかわからなかった。
『感想が届いています』
祈りを込めながら通知をクリックする。
間に合ってくれ。地球最後の瞬間に誰かから届いたメッセージ。どんなものでもいい。気づかないうちに双眸から零れ落ちていた。ぼやけた視界で必死に文字を読む。轟音が近づいてくる。こんな時に限って回線が重い。もしかして断線してしまったのかもしれない。もうすぐ自分自身が消えてなくなってしまうというのに、顔も知らない誰かからの言葉を読むことだけを祈っていた。
画面が切り替わる。願いは通じたようだ。喜びながらメッセージを読み始めた瞬間、爆音とともに空間が螺旋を描くように回転をはじめた。それでも、潰れていく視界の中で必死で画面に食らい付く。
『世界の終わりに、こんな話を読めてよかったです。ありがとうございました』
最後に読めたメッセージはここまでだった。ほんの少しの文字数ではあったが、地球とともに死にゆく自分にとっては十分すぎる。痛みを感じることがないまま、まるで電気のスイッチを切ったかのように世界とともに意識は消え失せた。
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