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そういうもの
突き刺すような陽の光が、頭上から降り注いでいた。地球最後の日だというのに、太陽は自重してくれないらしい。蝉の鳴き声がどこか遠くから聞こえてくる。アブラゼミとツクツクボウシの奇妙なデュエットがエンドレスに繰り返されていた。
あまりにも馬鹿げた話だ。今でもあまり現実味がない。巨大な隕石によって地球ごと世界が滅びる。映画でもそんなものは描かれることはない。荒唐無稽で一笑に付してやりたいものなのだが、学者達が泣きながら答えた話によると、どうやら本当のことのようだ。
駅前の複合商業施設では、いつも通りの喧騒が響いていた。どこかに走っていってしまいそうな子供の手を取って笑う親や、クレープ屋に並ぶ学生グループや初々しく手を繋ぎながら映画館から出てくる恋人達を見ていると、本当に今日をもってこの星の歴史が終わってしまうなど想像ができなかった。
こんな日ぐらいは家に篭っていたかったのだが、ここまで良い天気になってしまうと勿体なく感じた。家を出る理由としてはその程度のものだ。色とりどりのインターロッキングブロックで舗装された通路を歩きながら、どこか休めるところを探していた。特に何も買うつもりはなかった。目的もなくやってくるには、この施設は広すぎる。鈍く痛みだした足首を庇いながら、当てもなく歩き続けた。
唐突に勇ましい音楽が鼓膜を震わせる。何事かと思いながら辺りを見廻すと、そう距離もない場所にある特設ステージでヒーローショーが始まっていた。銀色のボディを身に纏い宇宙を駆け抜けるヒーローは、子供の頃に見たデザインとは大分変わっていた。それでも彼らを見上げる子供達の瞳は、当時の自分のように輝いていた。ならばデザインなど、些細な問題ではないか。
『隕石は、僕たちが必ずやっつける。だから明日、また、会おう!』
ほんの一摘みの希望を塗りつぶすほどの、決まりきっている絶望。それは心をたやすく握り潰す。それでも言葉というものは時には残酷であるが、時には救いになり得るものだ。言葉の意味を理解することができず、ヒーローに手を振り続けている我が子の肩を抱く親の表情を、私は見ることはできなかった。働き続けた人生の中で、生涯の伴侶を見つけることのできなかった私には、彼らの気持ちを完全に理解することはできない。年老いてしまった私にできることといえば、本当にヒーローが隕石を壊してくれればいいのにと願うことしかできなかった。
歓声から逃げるように歩いていく。車が往来できそうなほどに広い通路には、キッチンカーが何台も停まっていて、それぞれから独特の香りを放っていた。ホットドックやケバブなどの軽食から、沖縄そばといったなかなか見ないものまで存在するそれらは、さながら祭りのようだった。
その中で一つ、通路の隅に気になった出店を見つける。木製の看板で『アイスコーヒー』と書かれた小さなものだ。アイスコーヒーの出店というのはなかなか珍しい。旅行で仙台の方に出かけた時、近所の喫茶店の店主であろう年老いた男が出店で出していたコーヒーの出店。ただの興味本位で購入して飲んでみたのだが、非常に美味であった。それと同じような体験ができるかもしれない。キッチンカーに向かうと、車内のアジアンテイストの服装をした若い女性が営業スマイルの欠片も感じない無表情でこちらを見ていた。今更この状況で、店員の態度でどうこう言うつもりはない。財布を片手に、カウンターを模した車の側面に立つ。
「いらっしゃいませ」
やや低い女性の声とともに、ワイヤレススピーカーから音楽が流れている。聞いた事のないメロディではあるが、どこか落ち着いた雰囲気が、車内から香るコーヒーの香りとマッチしていた。
「アイスコーヒーをお願いしたいのですが」
「東ティモール産とコスタリカ産がありますが、どちらが良いですか?」
柔らかく伝えたつもりではあったが、女性は無表情を崩すことはなかった。最早こういうスタンスなのだろう。深く考えることをやめた私は、女性の視線を追うようにに立て看板を見る。チョークで書かれた看板には二つの豆の酸味や苦味の指標が描かれていた。見る限り、東ティモールの方が酸味が少ないらしい。酸味が強いコーヒーがあまり得意ではない為に、そちらを注文する。
「かしこまりました。少々お待ちください」
女性は慣れた手つきで作り始める。調理スペースには仕切りが立てられていて、細かい作業まではよくわからなかったが、淀みのない動きからして彼女の手際がいいということだけは理解ができた。仙台で見た年老いた男よりも、遥かにスピードが早い。それでもコーヒーというものはそれなりに時間を要するものだ。世界が終わる日だというのに容赦なく照りつける太陽が、私の身体をじんわりと焼いていく。シャツと背中が汗を介してくっついていく不快な感覚が、早く冷たいものを飲ませてくれと叫んでいるように感じた。
「暑いですね。そういう時こそ、日陰で飲むコーヒーが美味しいんですよ、知ってました?」
表情を変えることはなかったが、声はどこか弾んでいる。確かに美味そうだ。
「いや、知りませんでした。まさか、こんな日に新しいことを知れるとは思ってもいなかった」
「こんな日だからこそ、ですよ」
彼女の声のせいかもしれない。無表情のままの女性の瞳が、どこか蠱惑的なものに感じた。魔性の女というものは、きっと彼女のような人間を示すのだろう。
もっと早く彼女に会っていれば、私は溺れていたかもしれない。そんな馬鹿なことを考えてしまうほどに、目の前でコーヒーを淹れている女性は美しかったのだ。
「そういうものかな」
「そういうもの、ですよ」
細く長い指が大きめのロックアイスを入れたカップにダークブラウンの液体を注いでいく。氷が急速に熱されることでみるみるうちに溶けていく様子は、夏の風景としてはこの上なく上等なものに見えた。
程なくして、並々と注がれたアイスコーヒーがカウンターに置かれる。氷と氷がぶつかる音が、喧騒の中でもやけにはっきりと聞こえた。カップの外側に大量についている水滴が、中身の冷たさを容易に想像できた。
「500円になります」
予め用意していた硬貨をカウンターの料金入れに置く。ずっと無表情だった女性の口角が、ほんの微かではあるが上がったような気がした。
「ありがとうございます、気が向いたら『また』来てください」
彼女の言葉に動き出そうとしていた足が止まる。『また』という言葉。今日、投げかけられることがないと思っていたもの。もう、来るはずのないもの。目の前の女性が口にしたそれは、ヒーローが子供たちに伝えていたものとはまるで違うニュアンスを感じた。まるで呪いだ。次なんて、もう訪れることがないというのに。
「心残りがあったまま死ぬなんて嫌ですけど、綺麗に死ねる人なんて殆どいないと思うんですよね。私は、心残りがある方が人間らしいかなって」
彼女の言葉には、何も答えなかった。答えなかったこと自体が心残りになるような気がしたからだ。そのまま無言でキッチンカーから離れる。振り向くことはない。彼女と話すのは、これが最初で最後でありたかったのだ。
冷たさを主張してくるカップを片手に持ちながら辺りを見回すと、建物の影に人工木製のベンチが置かれていた。まるで狙い済ましたかのような好条件の場所であったが、誰も座っていない。これ幸いと小走りでベンチに向かい、腰掛ける。
一息吐いたあとに、ようやくカップの中身を口に運ぶ。鋭い苦味のなかに確かに感じる旨み、そして控えめな酸味のバランスが、乾ききった私の身体を急速に潤していく。人生で最後に飲むコーヒーがここまで美味いというのは、目的もなく出かけた意味もあったというものだろう。
おそらく夜になって世界の全てが終わるまでは、この味を何度も何度も思い出すだろう。それが、あの女性が私に刻みつけた呪いだということは理解している。それ程までに、美味いコーヒーだったのだ。
「そういうもの、なんだろうな」
無意識に出た呟きは、誰の耳に入ることなく夏の空へと飛んでいった。
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